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    東本願寺しゃべり場

    第74回 東本願寺しゃべり場

    開催日 2011年6月14日(火) 午後7時~午後8時30分
    開催場所 青少幼年センター
    お話 井上正さん(同朋会館研修部補導主任)

    今、私が仕事をいただいているところは、同朋会館といいまして、全国からお出でになるご門徒の方が東本願寺で2泊3日の本廟奉仕の生活をしています。 夏には小学4~6年生を対象とした子ども奉仕団という、子どもたちと一緒にほとけさまの教えを聞いていく場所が開かれます。そこに関わるスタッフの人たちが 子供たちと一緒に生活する中で、「つながり」ということが問題になっています。親と子というつながりや友だちとのつながり、学校であれば先生とのつながり、 講師とスタッフやスタッフ同士のつながりなどが問題になっています。

    つながりを自分の方から切ってしまったり、仲間に入らないと切られていくようなつながりが問題になっています。また、無縁社会という言葉でも表されるような、 時代に象徴されるつながりの問題があります。

    つながりのしんどさを感じるなかで「いったい何のために生まれてきたのだろうか」と思うときに、その「つながり」ということについて、友だちやまわりの人との つながりの関係そのものが、自分の側から見たときと、まわりから自分が見られたときなど、問題を考えていく眼はどこにあるのだろうか、ということを思います。

    いのちの事実から見てみるとどのようにみえるのか?それは私たちが生きているということは、「すでにつながりの中に生きていて、つながりを生きている。」 ということです。しかし、そのことによって、「自分の思いでみていると、つながっているようにはみえない」という私自身の物事の見方に問題があるということを つくづく思い知らされます。

    親鸞聖人は「煩悩にまなこさえられて 摂取の光明みざれども 大悲ものうきことなくて つねにわが身をてらすなり」というご和讃をつくられていますが、 煩悩に眼(まなこ)を障(さ)えられるということは、自分の思いによってあるがままの姿を見ることができない。そういう見方をしている私自身のあり方が 指摘されています。そのことを思うときに、すでにつながって生きあっているにもかかわらず、そういう事実が見えない、そういうことを思うのです。

    そのことは、この人はこういう人だと自分で決めてみていることに起因しています。本当にそのひとそのものかどうか理解しようとせずにです。自分で、 なにげなしに決めていることが、同時に改めて見直してみようということを失っていくのです。

    今年は、親鸞聖人のご法事の年でもありますから、親鸞聖人のご生涯のことを勉強したりしておりまして、折々に「愚者になりて往生す」という言葉を繰り返し お聞きします。仏さまに照らされてみると自らのあり様の愚かさが、個人的な愚かというよりも人間そのものの持っている眼の暗さ、そういうことを教えられている 言葉だと思います。

    今年に入ってから親鸞聖人の御遠忌の直前に大きな地震がありました。人間であれば何かボランティアをしなければならない、というような世の中の雰囲気に、 なかなか行動できない自分に負い目を感じたりしていました。また、阪神大震災の時は、ご縁があって先輩に呼びかけられてボランティアに行きましたが、行ったことを 誇ってみたりしているような自分を思う時に、何かいろいろな縁にもよおされて生きていることを思わざるをえないわけです。

    親鸞聖人が「さるべき業縁のもよおせば、いかなるふるまいもすべし」と言われたお言葉に帰っていくと、どういうご縁が自分のところに起こるか分からないけれど、 ご縁があったところで右往左往している自分の姿を思い知らされる。そういう意味では、ボランティアをできるご縁がある時には、行ったことを誇りに、できなければ できないで卑屈になってみたりするような、そういう自分の根性を振り回して生きているということをつくづく思わされます。それは、自分だけの問題ではなくて、 まわりの人たちを見ていてもそういうことに振り回されて一喜一憂している。そういう意味でいえば、縁にもよおされるということは本当に深いなぁと思うわけです。 縁にもよおされ、受け止めていなければ、深さというものは感じないわけで、できる時には喜んだり、できない時には卑屈になったりすることをもっと深いところに 突きつめていった時に、やっていることが続けられないとか、悲しむにしても悲しみきらないようなそういうところに耳を傾けていく時、人間はいったいどうして いろんなことに一喜一憂して生きているのだろうかと思います。

    そういう自分を呼びかけてくるような声をふと自分を揺り動かすようなかたちで、問うてくるものがあるのです。そういうことにあう時に、親鸞聖人がお手紙の中で、 「世にくせごとのおこりそうらいしかば、それにつけても、念仏をふかくたのみて、世のいのりにこころいれて、もうしあわせたまうべしとぞおぼえそうろう」 何か世のくせごと、個人的なことも含めてと思うのですが、個人的な悲しみというよりも、もっと深いところ、人間そのものを悲しみ痛むようなそういうところに、 それが世のいのりだと感じています。和とは不和の悲しみであることを感じます。それが個人的な問題よりも、もっと深くて、自分自身を支え、揺り動かし、 呼び覚ましてくるような、そういう世のいのりが念仏ということではないかと最近思います。そういう念佛を親鸞聖人は私たちにすすめられているとおもいます。

    そういう人間そのものを問うてくるようなはたらきに出遇う時にあらためて自分自身が自分自身の思いに縛られていることを教えられることが、仏教が教えてきた 大切なことであり、私たちの先輩方が仏教の教えを尋ねてこられた理由がそういうところにあるような気がしてならないなあと最近思っています。そのことが 世のいのりということの中に多々自分の思いにしずまない、しずみこませないような人との出遇いということを大事なこととしていただいています。

    日頃はそういうふうにして、人を見出していくようなことができないのですが、よくよく今までの人生を振り返ってみると、自分自身がそのようにして人を見出す前に、 先輩やいろんな先生が私自身に聴聞の場に出てこないかと呼びかけてくださったり、祖父や祖母がお勤めをしている後姿から呼びかけてられていた。常に呼びかけられ続けて いたんだなと思います。そう思う時に自分の関心で人を見ていたことが、非常に恥ずかしいことだったなあと思うのです。呼びかけられていたことに気がつかないで、 恥ずかしかったなあと思うことが、先程ご紹介申し上げた「煩悩にまなこさえられて 摂取の光明みざれども 大悲ものうきことなくて つねにわが身をてらすなり」そういう ご和讃のところにあらためて頂かれてくるように思います。本当に、私たちは、物事をきちっと見たり聞いたり受け止めたりするこができません。私がいろいろな縁にも よおされて、あらゆる人たちから順縁とか逆縁という、自分の受け止めやすいことは順縁、受け止めにくいことは逆縁ということになるのでしょうけれど、順縁、逆縁も含めて いろいろな人たちから常にお呼びかけをされ、お育てをいただいているそういう世界だったんだということを最近つくづく思います。

    そういうことを思うとあらためて、身のまわりにいる人、今までちょっと出遇ってきた過去の人や、これから出遇うであろう人々、そういういろいろな人を見て、 何か表立って拝むことはできないですが、一人ひとりを大切におがめるような生き方ができればいいなぁと最近感じています。そのことが、浄土真宗という教えをいただいて いる先輩方が同朋という言葉を大事にしてきた歴史であり、念仏の僧伽を見出したり、また、自分自身も見出されたりしながら、場を開いてきたのでしょう。今、改めて 真宗門徒の伝統をいただき直していきたいと感じています。

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