活動報告

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活動内容

第35回「東本願寺しゃべり場」
開催日:2008年3月19日(水)午後7時~午後8時30分  開催場所:東本願寺総会所

お話:泉敬祐さん

第35回「東本願寺しゃべり場」 の様子  僕はこういう場所があまり得意ではありません。何故かというと、人前で話をするということは、みんなの前で服を一枚ずつ脱いでいって、自分の姿を曝け出していくような気がするからです。ですからここで皆さんに話をしなければならないことになってとても憂鬱でした。
 先日、ある人の法話を聞いていたら、「人前で話をするということは、今現在の自分が考え感じていること、つまり‘旬な自分’を語ればいいんだ」という趣旨のことをおっしゃっていました。僕も少しでも旬な自分を語れればと思っています。
 「サンガ」(東本願寺真宗会館の首都圏広報紙)という新聞があるのですが、そこに僕の友人が文章を書いていました。彼の弟の奥さんが脳梗塞で倒れられたときの出来事についての文章でした。

(内容)
  弟の妻である義妹が救急車で運ばれ、弟は「仕事を全て辞めても、妻と子どものために生きていきたい」と言い不眠不休で妻を見守っていた。私は弟に「おまえが倒れたら子ども達は両親を失う。体をいたわって欲しい」と懇願した。
 40年間兄弟として過ごしてきたが、弟の苦悩を身近で感じたことは初めてだった。この義妹の病によって弟と心が通じ合ったように思った。妻が倒れるまでは仕事が生活のすべてだった弟は、今、妻と子どもと過ごす時間を大切にしている。私も義妹の病気のことがあってからは、病や死と隣合せの身を生きているということを実感している。「お前は今人生が終わって本当に満足だと言える生き方をしているのか」という声が聞こえてくるようだ。
 老病死の前に立った時、崩壊しないものは何だろうかと考えてみる。私たちは苦悩の現実に出会った時、現実から逃避して目を背けて生きようとするが、その事実を受け止めて生きることができた時、本当の満足はあるように思う。

 僕の友人は、今までは自分の弟と本当の意味では出遇っていなかったんだということを、義妹の病気によって気づき、そしてそのことによって弟と「出遇った」と感じたんですね。僕も彼のこの文章を読んで、それまで知らなかった彼の内面を見せられ、今まで彼の何をわかったつもりでいたのだろう、自分は彼の何と出遇っていたのだろうと思いました。

 少し前のことですが、「現代の葬儀について」というテーマで「お別れの儀式はどうあるべきか」を考えるパネルディスカッションがありました。そこである人が「その人とちゃんと出会っていないのに、本当の意味でのお別れができるはずがない。亡くなった人とどのように出会っていたのかということが課題にならなければ、お別れの儀式のあり方をどれだけ考えても議論が上滑りするだけではないだろうか。」と言われたのがとても印象的でした。出会うということの大切さを改めて教えられたような気がしました。
 葬儀のときに「本願力にあいぬれば むなしくすぐるひとぞなき 功徳の寶海みちみちて 煩悩の濁水へだてなし」という親鸞聖人が書かれた和賛を読みます。亡くなった人の生き様を振り返ったとき、その人は本願力(真実)に出会った生涯を送られたに違いない。そして、残された私たちに、「自分が出遇った本願(真実)にあなたも出遇ってほしい」という願いをかけてくださっている。そのことに気づきなさいという促しとして、この句をお葬式の読むのではないかと思います。空しく過ぎることのない歩み、出遇いをしてほしいということであり、私たちの「今」のありようが常に問われてくるのでしょう。

ひきつづいて行われた語り合い(座談)

「人と話すときにどうしても身構えるよね」
「そうだね。どう話したらいいか分からなくなる」
「自分が相手に対して身構えるように、相手も身構えているのだろうね」
「自分自身が見えていないからそうなるのかな」
「うん。自分で自分の姿が見えれば、身構えることもないかもね」
「基本的に自分で自分は良い人間だとして人と接してしまう。そういった自分のあり方が人と接するときに態度として出てしまうのだろうね」
「泉さんが言われる人と出遇うってどういうことだろう。本当に出遇わなければ別れることができないというのは、ただ単に別れることではなく、心の繋がりのことを言っているのだろうね」
etc.
第34回「東本願寺しゃべり場」
開催日:2008年2月20日(水)午後7時~午後8時30分  開催場所:東本願寺総会所

お話:秋吉正道さん

第34回「東本願寺しゃべり場」 の様子 「先日、飼っている猫が何も食べなくなり入院しました。親しい友人が亡くなった頃に出会ったということもあり、私はこの猫にずいぶん支えられました。高齢なのでとても心配です
 そんな折、私の義理の従兄弟が入院したという電話がありました。慌てて病院へ駆けつけると、幸い意識ははっきりしています。しかし、病院の先生は「できることは全てしましたが、非常に危険な状態です」とおっしゃいます。そんな中彼は「おい、老後はハワイに行こう」と言うのです。何日か前にハワイから友達が来て誘ったようです。私は彼を励ます意味と、また本心から「良くなったら、一緒に行こう」と答えました。なぜなら、私と話している様子からは持ち直せるのではないかと思えたのです。
 そしてまた、彼のお寺には跡継ぎがなく、お寺に嫁いできたばかりの坊守(住職の奥さん)が一人になってしまう状況を考えると「死なれては困る」と切実に思いました。
 しかし同時に、私自身に問い返されたのは、私は本当に私は従兄弟のことを、つまり今まさに生死の境にある人間のことを心配しているのか、それとも彼のお寺の状況を心配しているのかという問題です。。。。

 結局、従兄弟は亡くなりました。。。
 彼との信頼関係からか、残された坊守さんから何かとお寺についての相談があります。しかし、私が具体的に何かできるというわけではありません。
 それでも最後に「お互い迷惑をかけあっていきましょう」と声をかけました。それは、「迷惑をかける」ということが「支え合う」ということになるからだと思ったのです。
 今の時代、何でも便利になりました。しかし、便利になればなるほど迷惑をかけあうことがなくなってきているのを感じます。私は亡くなった従兄弟と、お互いが精一杯迷惑をかけ合ったからこそ、支えあえました。
  誰もが何にも迷惑をかけずに自分が今ここにいることはありません。しかし、現代私たちが求める便利さというのは、迷惑を かけることが許されなくなっている形ではないでしょうか。どれだけ迷惑をかけあおうとも、人と向きあうことは自分自身と向き合うことにもなってくるのではないでしょうか。
 「死」ということをとおして、亡くなられた方からの願いということを考えさせられました。」

ひきつづいて行われた語り合い(座談)

「私たちの普段の心で、共に生きたいと願ってもなかなか共になれない現実がある」
「でも人との関係もできることから少しずつ作り上げていきたいね」
「普段、人との関係をスムーズにやっていこうと、適当にしてしまうこともあるよね」
「仕事をしているとよくある」
「難しいね。人の事を考えている余裕も無ければ、何故考えなければならないのかとまで思ってしまう」
「人のことを考えず、こういう人だと決めつけて関わりあおうとしない自分が悲しくなってきた」
「こうして話していると、そういうことが寂しく感じるね」
「人の意見を聞くと、人と向きあうことが自分に向きあうことになってくるということが、少し感じられるようになってきた」
「様々な物事から自身が問われて、考えて、生きることの大切さがあるのだろうね。人として育っていきたいと思う」
etc
第33回「東本願寺しゃべり場」
開催日:2008年1月16日(水)午後7時~午後8時30分  開催場所:東本願寺総会所

お話:四衢 亮さん

第33回「東本願寺しゃべり場」 の様子 「どうも今晩は。こちらでは初めてお話しをします。私は絵本のプロジェクトも担当していますので、今日は絵本を通してお話しをさせていただきます。
 絵本というのは基本的には、大人が子どもに読むものです。子どもは絵を目で見ながら物語を耳で聞いて絵本の中で遊ぶのです。つまり子どもの上に絵本は完成します。これが絵本の世界がもっている広がりです。私は絵本を通してお寺が子どもたちともう一度つながっていけたらと考えています。
 さて、今日は2冊絵本を持ってきました。先ず『だいじょうぶ だいじょうぶ』(いとうひろし 作 絵 / 講談社)を紹介します。

 (絵本朗読)

 この本は僕とおじいちゃんとの散歩から始まります。僕は散歩によって世界がどんどん広がっていきますが、それと同時にだんだん困ったことや心配なことや怖いことも増えていきます。
 でも、そのたびにおじいちゃんが手を握って「だいじょぶ、だいじょぶ」と助けてくれます。無理に友達にならなくてもしぜんと仲良くなれることもあるし、病気や怪我もたいていは治る。知らない字もだんだん読めるようになる等です。
 それは、そんなに自分をだめだと思わなくてもいいし、自分で自分を嫌いになる必要もない。そしていろんな形で自分を支えてくれる世界があるんだということを、教えてくれるのです。
 また、やがておじいちゃんが歳をとり、今度は僕が「だいじょうぶ だいじょうぶ」と言い手を握り返していく、そういう世界があることも知らせてくれます。

 今、自分で自分を嫌いになる子どもが増えています。また、苦労多い人生を生きてきた果てに自分で自分を嫌い、自らいのちを絶っていくお年よりも増えています。日本では現在9年連続で3万人の自殺者がありますが、一番多いのは高齢者で全体の35%を占めるんです。
 つまり、多くの人が自分で自分がだめだと決めつけさせられるような世の中を感じているのです。
 なんとかお寺が「そんなことないんだ自分で自分を嫌いになる必要も無いし、だめだと決め付ける世界なんてないんだ、だいじょうぶ だいじょうぶ」と声をかけていける場所になっていけたらと思います。
 実は、私たちが宗祖とする親鸞という人は、出会った人たちに「だいじょうぶ だいじょうぶ」といい続けた人だと思いますし、そういう世界を一緒に開こうとされた人だと思います。」

 続いて四衢さんは、「だいじょうぶという言葉は開き直ることではありません。立派な優れた者になることでもなくて、本当に自分に出会っていこうという歩み、今のままでだいじょうぶと言える形なのです。」と語り、『大きな木』(シェル・シルヴァスタイン 絵 作 / 本田錦一郎 訳 / 篠崎書林)という絵本の紹介をとおし、内容を深めていかれました。

ひきつづいて行われた語り合い(座談)

「四衢さんはリンゴの木(大きな木)を人生そのものになぞらえていたね。」
「大きな木の話しを聞き、人間は他の自由を奪ってしか生きていけないことに気付かされる」
「大きな木が教えてくれるように、人生は自分のものではなく与えてもらっているというのに、私たちは自分の人生は自分のものだとして、我がままに生きているのかな」
「私たちは人生にいろんなものを求めるけれど、人生が私に何を願っているかということがなかなか聞けないね」
「確かに、だれかの真似をするんじゃなくて、本当に私自身を深く生きていきたいという思いはあるんじゃないかな」
「そうか、『大きな木』に出てくる「だけどそれはほんとうかな」という問いは、立ち止まって自分を見つめ直すことの大切さを教えてくれているのかもしれないね」
「今、ここにある私にうなづいていく。。。一歩一歩、歩むか。。。」
etc
第32回「東本願寺しゃべり場」
開催日:2007年12月19日(水)午後7時~午後8時30分  開催場所:東本願寺総会所

お話:白川良行さん

第32回「東本願寺しゃべり場」 の様子  「報告があります。実はお寺の都合で、来年から続いてお話しをすることが難しくなりました。
 もっとも、今後は私を含めてスタッフやサブスタッフが交代しながらお話をしますのでご安心を。

 さて、私たちは生きていくうえで何かをしたいと思ったとき、現実とのギャップに苦しみなかなか「生き生き」とできません。
 それは、現実が自分を押しつぶそうとしているのか、あるいは自分が現実をわきまえていないからでしょうか。また、たとえ思いどおりになったとしても、周りをかえりみず一人だけしたいことをして喜んでいて本当にいいのかという問題もあります。

 私は、「しなければならないこと。できること。したいこと」という3つのことが一致するときに「生き生き」とできると考えます。
 「しなければならない」というと義務や管理というように押さえつけられるような意味に捉えられがちですが、ここでは自分のしたいことが一人だけの世界ではなく、周りの人と共有できる喜びとし得るための「しなければならない」ということです。
 自分一人だけの世界にいると、この「しなけらばならない」ということと「したい」ことはなかなか一致しません。
 お釈迦さまは「一切皆苦」という教えをとおして、人生が思い通りにならないことをお説きになっておられます。そして、そのことを自分が納得できるかどうか。決して自暴自棄になるということではないのです。
 私はお寺を継ぐときに、私の先生に「お寺を継ぐということをどう思って生きていくのか」と尋ねられ、私は正直に「親の面倒をみるためだ」と答えました。
 それを聞いた先生は「それならば、パン屋でパンではなしに、洋服を売っているようなものだ。お寺は何をするところなのかを考えず嫌々やっていても「生き生き」できないし、まして心の依り処を求めている人に失礼ではないか」と問い返されました。
 私が現実的だと思い発した言葉は、大きく現実から乖離していたのです。それ以来、自分の思いが現実とどう乖離しているのかをずっと考えさせられています。
 自分の思い通りにならないという思いの中で「しなければならないこと、できること、したいこと」をじっくり考えることによって、人生は同じ環境や状況であってもかわってくるのではないでしょうか。
 それは、私自身どういう人間になりたいのか、あるいはなっていくのかということを自分の問題として抱え続けていることでもあります。

 今日は、これからなかなか来られなくなることもあって、少し自身のことも含めて考えさせていただきました。

ひきつづいて行われた語り合い(座談)

「思いと現実のギャップは大きいよね」
「しなければならないことがあっても、したいことにすぐ目がいってしまう」
「しなければならないこと、できること、したいことという3つは常に一緒にならないよね」
「そう、例えば仕事をしていても、しなければならないことが多すぎてしたいことができない。白川さんが言われた意味での共にしなければならないことにもなかなか目が向かない」
「そうだよね。たまたま一緒になっても3つの内せいぜい2つかな」
「3っていう数字は大切な数字でもあるって聞いたことがある。2本では倒れるけれど3本は倒れない。しなければならないこと、できること、したいことの3 つもなかなか一緒にならないけれど、私たちに大きな課題を与えてくれる3本柱になっているのじゃないかな」
「なぜ外からの影響があり、自分の中から苦しさが起こってくるのか考えていきたいね」
「生きていくうえでしなければならないこと、できること、したいことを考え、関係性の中で生きる人としての目を育てたい」
etc
第31回「東本願寺しゃべり場」
開催日:2007年11月21日(水)午後7時~午後8時30分  開催場所:東本願寺総会所

お話:白川良行さん

第31回「東本願寺しゃべり場」 の様子  「先日、肩から腕にかけて痛みと痺れが走りました。友人の医者に頚椎症と診断されました。
 前日に長時間パソコンの前に座っていたのが原因のようですが、根本はやはり歳ですね。
 そんな時、思ったのは「なんで自分が」ということです。パソコンの前に長時間座っている同い年の人間を何人も知っています。原因は分かっていながら釈然としないんです。「不条理、理不尽」だと思いました。
 しかし、お釈迦様の教えはそもそも「四苦八苦」なんです。人生は辛いことにあうものだと、この手や肩が示しています。ですが、こういうことは時が経って直ると忘れることもあるでしょうね。
 やはり、人生の中で一番不条理だと感じることは「死」です。「死」からは逃れられないからです。自分の思い通りにならないのが人生なのだと「死ぬ」ということが示してくれます。
 私たちは、逃れられないと教えられているのにも関わらず、「逃れたい」という気持ちを起こし、前回話したように何かに救いを求めてしまいます。
 それならば、不条理な中をどう生きるかと考えるのですが、やはりどうしょうもない。腕や肩のことを上げるならば、科学的に痛みを抑えることはできても、またぶり返したり別の苦しみが起こったりします。根本的な解決をすることが求められるのです。
 ややもすると仏教は「痛いのを取り除いてくれ」という欲望や願望を叶えてくれるように思われますが、反対に苦しい中でも「生き生きとして生きなさい」という、仏様に願われている存在に気付かされるのが本質です。
 そこでまた、人生や自分を確かめられる。
 苦しくても生きていこうという思いは普段なかなか起きません。納得するのは難しいですね。しかし、苦しみを背負い支えにして、なお生き生き生きていく道を歩んでいる人が居ることに希望をもたされます。

 今日から報恩講が東本願寺で勤められています。報恩講とは、自分が仏様の教えを信じているのかいないのかを今一度確かめ、仏様の恩を味わう期間です。信じてないから駄目だということではありません。信じていないのならその理由を考え、一緒に歩んで行こうとするのです。どんな人の思いも切り捨てないのです。

 なかなか生活での苦しみを受け止められない自分がいますが、そんな自分と「一緒に考えよう」という声が聞こえます。実際に言葉としては聞けませんが、先輩やご縁のあった人から教えられますね。」

ひきつづいて行われた語り合い(座談)

「本当に不条理だと思うことが多いです」
「そうだね。なんで私だけがこんな目にあっているのだろうって」
「仕事でも家でも恋愛でも色んなことで思うよね」
「こうやって聞いていると皆、不条理と思っているんだ」
「そうなんだよね。不条理だと思っているのは、自分だけではないはずなのに、自分のことになると原因を外や他の人にしてしまう」
「誰でも先ず自分を守ることはあると思います。でも、ほんの少しでも他の人も自分と同じような思いがあることに気付けたり、ふと自分を冷静に見ることができれば、様々なできごとに対する違う見方ができるかもしれないですね」
「体の痛みも心の痛みも、自分が生きる上で頂いた糧として受け止めれるかどうかが要になりそう。状況にもよるだろうけれど、何も考えずに「不条理だ」というように痛さにもがきたくはないよね。」
etc

 私も日常の中、はっきりとした理由がないままに怒られたときなどに「不条理・理不尽」だと思うことがあります。そのことに限らず、よく腹を立ててしまうことがあります。しかし、自分の身に起こる事実をどのように受け止めるかで、他人や社会に対する思いも変わってくるのだと思います。
 私ももう少し、自分の感情や思っていることを振り返りながら物事の背景に耳を向けていきたいと感じました。
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