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1月号 ハンセン病はいま <179>

ハンセン病問題と私
< 東本願寺沖縄別院 知花一昌 >

日本の中の偏見・差別を知る
 この間私は、差別問題については常に関心を持っていたし、敏感だと自分では思っていた。それは一つには、沖縄への歴史的差別である。大学時代は沖縄の歴史・民俗を学び、本土復帰運動をとおして現実を知るにつけ、沖縄と本土日本との間には厳然とした差別の構造が連なっていることを感じてきた。その主なものは、第二の琉球処分と言われる一九五二年の日米講和条約第三条で、日本の独立と引き換えに、沖縄が屈辱の時代と言われる異民族軍事独裁下に追いやられたことや、七五%の在日米軍基地が集中し、構造的差別が続いていることなどである。
 二つには、娘・未来世みきよの障害者差別である。「障害者は社会のやっかい者だ、かわいそう」とのあわれみの見方が多くの人々に未だに根強く残っており、そのことで障害者が人間的尊厳を汚され、人間扱いされなかった時代がいかに長く続いてきただろうか。今では当然のようになってきたが、障害児が普通の小・中学校に入学するのにさえ父母と本人たちは実に多くのいやな、辛い思いと努力を要したのである。理解は徐々に広まってはいるが、未だ障害者差別は厳然とある。
 三つには、私の「日の丸焼却裁判」に多くの被差別部落の青年たちが支援をし、部落差別の実態を知らしめてくれたことである。沖縄には部落差別問題はないので、職業や地域によって差別があるなど思いもよらぬことであった。今の民主的社会の中で封建時代の遺物がはびこっている現実に嘆かわしさを感じてきた。
 四つには、朝鮮人差別である。朝鮮人が日本社会に多く生活している状況がどうして起こっているかを自らに問わずに、社会的負担は背負わせながら、それに見合う基本的権利さえ剥奪している日本社会。まさに戦争の推進軸になり得る危険で理不尽な民族差別・排外主義がはびこっている。
 差別することが悪いことは誰でも知っている。ところが差別解消の困難さは、差別者が自らの差別性を自覚し得ていないことである。そのことで被差別者の人間としての真っ当な生き方・人間性を日常的に阻害していることであり、「真綿で首を絞めて、刃物を使わない殺人」と同じような仕打ちをしているのである。また、差別の存在を認めながら、差別はさも仕方ないことであるかのように、自らの利益を得るために政治的に、社会的に温存し、それを多くの人々が追認してきているからである。この二つが絡みながら差別が存在し、続いているのである。

ハンセン病への偏見差別・迫害を知る
 日本の中にこんなにも多くの差別が現存していることを知らされてきたが、ハンセン病への差別の実態(強制終生隔離、堕胎、断種、投獄と、親兄弟・親族への迫害など)を知るにつけ、これまでの私の認識の枠を大きく超え、驚愕と共に、知らないできたことに罪意識さえ感じてきた。国が「法」という権力をもって人間性を奪い取っていくことに私や多くの国民は暗黙の同意をし、支えてきたのである。いわゆる国をあげて人間であるハンセン病患者を抹殺してきた。我が真宗大谷派教団も積極的に偏見差別・迫害に手を貸してきたことは、周知のことである。
 ハンセン病の差別・抑圧の実態を知る契機は、私の「日の丸焼却」である。一九八七年に、沖縄海邦国体で私が「日の丸旗」を焼却したことで、右翼的な人たちによって私の経営する食品スーパーが放火・襲撃された。その時真っ先に駆けつけ、「このような仕打ちに負けないで」と名前も告げずに激励とカンパを置いていった紳士がいた。後で知ることになるが、その紳士はハンセン病国賠訴訟の原告であった。彼はハンセン病が完治し中学校に復学、高校受験に臨むが、成績は悪くないにもかかわらず「天刑病」だとの校長の偏見によって高校入学を拒否されたのだった。いわれなき偏見と差別によって人生が閉ざされていくことに激怒し、校長を殴ろうとしたが、優しさゆえに殴れず、泣いて帰った悔しさを持ったまま、その後の人生を送ってきた。彼は私に「右翼の攻撃があっても、あなたは自分の思ったことをやり得てよかったよ。私はそれができなかったんだよ。自分ができなかった分、君を支援するよ」と言ってくれた。十七歳の少年が、たった一人で一度も行ったことのない高校に、親ほどの年の差のある校長に談判に行き、いわれなき「天刑病」だとののしられ、人生を奪い取られて、泣いて帰る様を想像する時、私は胸の裂ける悲しさと言い知れぬ悔しさと怒りで一杯になる。
 ハンセン病回復者に入学拒否だけでなく、想像を絶した人間性抹殺の差別があったことを知るにつけ、自分に何ができるかを考えた。読谷村町議会の議員として国賠訴訟の支援決議を全会一致で行い、自治体として最初の支援集会を行い、熊本裁判に参加し、裁判勝利後の厚生省、首相官邸交渉にも支援として参加した。全国研修集会にも何回か参加した。これが懺悔とも言うべき精一杯の私の行動だった。この一連の動きに、顔見知りだった沖縄の真宗僧侶が私服で参加していた。後で知るが、実に多くの真宗僧侶がいたのである。僧侶が人権問題に、社会問題に関わっていることに、「宗教はアヘンである」と思っていた私は、非常に新鮮さを感じた。親鸞聖人の教えを学ぶにつれ、真宗は社会的苦に向き合える視点を持っているものと思いを強くしている。
 ハンセン病国賠訴訟の原告である紳士は、いま琉球親鸞塾で共に学ぶ御同朋である。

《ことば》
ここに来たときは、赤いツツジがいっぱい咲いとったんやで < 四国教区 岡 学 >

 昨年の七月、「「福島の子どもたちに夏休みを」プロジェクトIn大島青松園」の打ち合わせで自治会にお邪魔したとき、会長の山本隆久さんからお聞きしました。「ここに来たとき、大島は本当にきれいやった。赤いツツジが南の山にいっぱい咲いとって、その山をハチマキのように水路が通っとって、そこを自転車で走れとったんや。でも今は、山になってしもとる。なんとか元のようにしてくれたら、大島に来た人に案内できるんやけどなあ」。
 山本さんが大島に来たのは一九五二年、十九歳のときです。もう六十年になります。大島の多くの方は、この島をふるさととして暮らしておられるのだなと感じました。ふるさとは、安心して居られる場所だと思います。お店と病院が近くにあり、話せる人が身近にいることでしょうか。
 私は、赤いツツジをもう一度大島に咲かせたいという思いと、老人保養施設として青松園が社会に開かれ、医療・介護が後退しないよう何とか将来にわたって、人が来る療養所であってほしいと思っています。

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