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8月号 ハンセン病はいま <198>

「いのちの証を見極める
第10回ハンセン病市民学会総会・交流集会 in 群馬 草津」に参加して
<ハンセン病市民学会共同代表 訓覇 浩>
2人の死

 「いのちの証を見極める」を統一テーマに、群馬県草津町の栗生楽泉園で去る5月9日から11日にかけて開催された「ハンセン病市民学会総会・交流集会」は、私にとって、生涯忘れることのできないものとなった。
 ハンセン病回復者の人間回復運動の支柱であった(こう)美知宏・全国ハンセン病療養所入所者協議会(全療協)会長と(こだま)雄二・ハンセン病国家賠償訴訟全国原告団協議会会長が、大会期間中に相次いで亡くなられたのである。
 神さんは、9日、交流集会参加のために投宿していたホテルで心疾患を発症、搬送先の病院で死亡が確認された。そこに居合わせた者が大声で神さんの名を呼ぶ中、医師により「午後6時15分です」と死亡確認時刻が告げられた。茫然自失の瞬間であった。
 その2日後の未明、栗生楽泉園内にて谺雄二さんが息を引き取る。ホスト役として市民学会までは絶対に死ねないと言っていた谺さんは、霊安室で全国から集まった800人を超える人たちを迎えることになったのである。ハンセン病国家賠償訴訟勝訴の記念日である5月11日が谺さんの命日となった。
 神さんが亡くなって、市民学会スタッフがまず考えたことは、交流集会をこのまま開催できるだろうかということであった。しかし結論はすぐに出された。開催することが神さんの願いに応えること、谺さんが亡くなった今となれば2人の願いに応えることになるということであった。では2人の願いに応えるとはどういうことなのか。そんな大きな問いが与えられる中、開催されたのが今回の交流集会であった。


2人の闘い

 2人の運動のスタイルは全くと言っていいほど異なっていた。谺さんは、直接行動の先頭に立つ闘士であった。その運動の本質は常に、詩人としての深い人間洞察から出てくる、妥協の無い人間の尊厳性の追求であったと思う。集会直前に谺さんは、納骨堂に皆が本名を刻む運動を提起された。今回の「いのちの証を見極める」というテーマは谺さんの言葉である。名を奪うもの、命の連続性を断ち切るもの、託生の根源を否定するものから「いのちの証」を取り戻す闘いを、入所者からの抵抗は承知だと言いながら、納骨堂に全ての入所者が名を刻むという形で、呼びかけられたのである。
 一方、神さんの運動は、1人の置いてけぼりも出さない運動と言えるのではないか。若いころには、例外的退所を認められても、自分だけが外に出ても何の解決にもならないと療養所にとどまり、国賠訴訟が起こった時も、最後まで訴訟に加われない人の立場に寄り添われた。そして、すべての入所者が等しく、安心した生活を得られるためには、一歩も譲らず国と交渉し、療養所の現実を市民に広く訴えかけられた。そのことがハンセン病問題基本法の制定につながった。そしてそのまなざしは、ハンセン病回復者という枠を超え、すべての人に対して向けられていた。東日本大震災の後、療養所に被災者を迎えるということを真っ先に表明したのも神さんの運動のスタイルであると思う。今回の交流集会には、療養所将来構想実現に向けた全療協緊急アピールを携えての参加であった。


闘いへの呼応

 今回の市民学会の全体会は二部構成とし、一部では「重監房資料館の新設の意味を考える」と題して、栗生楽泉園の重監房復元の意味を確かめたが、この取り組みは谺さんの悲願であった。負の遺産をきっちりと残すことにより、死者の闘いの跡を後世に残し、人間の尊厳を明確にしようとされたのだと思う。
 第2部は、「納骨堂を残すことはなぜ大切なのか~療養所観の転換の象徴として『いのちの証』を将来に残す」というテーマであった。谺さんの問題提起を基調にしたディスカッションとなった。登壇予定の神さん、谺さんを欠く中で、十分課題を深めきれなかったと言わざるを得ないが、納骨堂の問題と名のりの問題は、宗教者としてのハンセン病問題への取り組みの基底にしなければならないことも確認された。
 一方、緊急アピールは、藤崎陸安・全療協事務局長によって発表されたが、一昨年7月に採択された「いまや国の責任をも顧みず、反動的政策を強行する政府の姿勢に対し、断固実力行使をもって抗議」する「実力行使決議」の断行をあらためて表明し、「刀折れ矢尽きるまでたたかい抜くことを決意する」という言葉で結ばれる悲愴なものであった。
 神さんや谺さんが、このような命がけの行動を起こさなければならなかったのは、いまも、回復者の方たちの上に「療養所は変わった」「社会は変わった」「これで安心できる」という真の解放の実感が与えられていないからに他ならない。それは、私たちもまた、隔離政策を本当に乗り越えることができていないことを意味する。
 私にとって、今回の交流集会参加は、否応なく、「回復者の願いへの呼応」というハンセン病問題への取り組みの原点に立ち返らせてくれるものとなった。

《ことば》
「天ちゃん、みろくちゃん、元気ですか。負けないでがんばってね。」 < 神 美知宏 >

 菊池恵楓園(熊本県合志市)での一時保養でお世話になった田中さんご夫妻からの年賀状。とてもあたたかくて、泣きそうになった。
 2011年3月に起きた東日本大震災と東京電力福島第1原子力発電所の事故で私たちは大切なものを数えきれないほど失くしてしまった。
 大好きなふるさと「福島」は、震災後「フクシマ」とか「fukushima」などと表現され、震災前とは変わってしまった。
 福島ナンバーの自家用車で県外に出かけた際、駐車を拒否された経験がある。差別を目の当たりにして、とてつもない不安と恐怖と怒りに襲われた。娘たちは自由に恋愛できるだろうか。結婚できるだろうか。大人になっても元気に笑っていてくれるだろうか。
 母親として娘たちを守れていないのではと悩み、落ち込んでいた頃に出会った田中さんご夫妻。ご夫妻は私にとって、先が見えない暗い道を優しく照らしてくれるような存在になった。娘たちも「九州のおじいちゃん、おばあちゃん」と慕う。
 将来、娘たちが嫁いで母親になることができたら、九州のおじいちゃん、おばあちゃんに曾孫を抱いてもらうのが私の夢だ。
(「あそぼい!熊本@熊本 菊池恵楓園」 保養参加者・渡邉美幸)

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