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宗祖としての親鸞聖人に遇う

「あこがれる」ということ

(水谷 英順 教学研究所助手)

新年を迎えて、また一つ歳を取った。誰もが免かれることのできない老いである。それとともに「あこがれ」という気持ちが薄れていくように感じているのは私だけだろうか。
因みに「あこがれる」という意味の漢字を調べてみると、「憧憬」という熟語が見つかる。それぞれの語意を見てみると、「憧」には、あこがれのほかに、心が定まらない、絶えず行き来する、さらには、にぶい、おろかという意がある。また「憬」には、広大な様子や遠く行く有様を表すとともに、さとるという意味がある。
二つの漢字の語意を突き合わせると、「憧」には安心できずにウロウロしている愚かな私の姿が見え、「憬」には広遠なさとりの世界が示されているように受け取れる。私が迷っている存在であることを知らされることによって、自ずからさとりの世界を求める身となることを、共通して「あこがれる」と訓読できる「憧憬」の熟語から読み取れるだろう。
ここで思い合わされるのが、『歎異抄』第十五条で取り上げられた、煩悩具足の身がさとりをひらくのか,という問題である。煩悩具足の身とは、心身の煩い悩みとともに生きざるをえない私と信知する弥陀の本願に遇うこと。煩悩を邪魔にするのではなく、生涯を通して煩悩に育てられ、人としての命尽きるとき、煩悩の束縛から解き放たれる。そのことを親鸞聖人は「善導和讃」に「金剛堅固の信心のさだまるときをまちえてぞ弥陀の心光摂護してながく生死をへだてける」(聖典四九六頁)と詠んでおられる。はっきりと信心が定まるとき、光に包まれるかのように弥陀如来の大悲心に摂めとられて、生死流転の苦から解放されると。
このように教えられていても,やはり命終わるときまで苦しみ悩み続ける私がここにいる。最初に老苦ということから書き起こしたが、生死の苦から解放させるという弥陀大悲の願心に、いよいよ今、私はあこがれる。親鸞聖人に導かれて。

(『ともしび』2007年2月号掲載)

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