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宗祖としての親鸞聖人に遇う

宗祖の姿を求めて

(鶴見 晃 教学研究所研究員)

教学研究所では、昨年『親鸞聖人行実』を改訂し発行した。ここ数年改訂作業にかかわり、発行を終えて、親鸞聖人を憶うということの意味を改めて考えている。
私たちは、九歳で出家し、二十九歳で法然上人に出遇い、流罪ののち関東で布教し、京都に戻って沢山の著述に力を尽くされたという、大まかな宗祖の生涯は知っている。しかし、私たちが思っている宗祖は、それだけではないのはどうしてであろう。私たちの思う宗祖は、その大まかな生涯以上に、もっと肉がつき、豊かであるはずである。私たちは、実在が疑われたほどに、生涯を知る確実な手がかりが少ないこともよく知っているが、その宗祖像はどのように出来上がったものであろうか。そして果たしてそれは、正しいものであるだろうか。
私の宗祖像、つまり私の憶う宗祖のお姿は、様々なところから形成されているはずである。親や先輩の話、法話、聖教、その他の書物、学校…。そして宗祖像にも時代性がある。かつてはマルクス史観的な階級闘争に宗祖が位置づけられたこともあった。そのような生々しい人間親鸞といった見方や、あるいはさらに近世に遡れば、奇瑞を起こし、神もが尊敬する貴人としての親鸞。このような宗祖像はその時代性を背負っている。つまり人間親鸞と言うところには、近代化する社会において生き生きと生きることが失われていく中、まさしく生々しく生き生きと生きる人間という理想が、親鸞に求められ、重ねられたのであろう。また、近世の伝記であれば、厳しい身分制度、そして幕藩体制下の寺檀制のもと、日々忍従しつつ暮らす人々にとってその忍従を宥めるよき教えとなって用いたのであろうことは想像できる。それと同じように、私たちも、私たち自身(の思想)を補完するものとして宗祖という存在を利用してしまうことがある。
しかし、宗祖の生涯のほとんどが不明であるという事実は、その私たちの宗祖像が本当に正しいのであろうか、自分の考えを投影しているのではないのかと、どこまでも私たちの宗祖像を問い直していく。勿論、そこには絶対に正しいという宗祖像などない。私たちの宗祖像は、常に必ず問い直されるものとしてある。これは宗祖像だけでなく、真宗という教えの受け取りもそうである。皆それぞれ、自分なりの教えへの受け取りがある。しかし果たしてそれは宗祖のお心であるのか。そう問い直す場が、聞法である。宗祖像であれ、教えの受け取りであれ、どちらも常に固定化を破り、問い直していくところに、真宗という仏道の大切な営みがある。
だからこそ私たちは、いつでも新しく宗祖に出遇うことができるのである。その宗祖像は、人ごとに違ってよく、同じである必要はない。私たちは語り合うところに、いつでも様々な宗祖に出遇うことができる。そう、私たちには、宗祖像が無限に開かれている。いつでも新しく、私たちは親鸞聖人の姿を求め続けていくことができる。

(『ともしび』2009年2月号掲載)

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