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宗祖としての親鸞聖人に遇う

「獲信」

(藤原 正寿 教学研究所所員)

たとい我、仏を得んに、十方無量不可思議の諸仏世界の衆生の類、我が光明を蒙りてその身に触れん者、身心柔軟にして、人天に超過せん。もし爾らずんば、正覚を取らじ。
(聖典二一頁)

『大無量寿経』三十三願「触光柔軟の願」には、このように本願が誓われている。触光柔軟ということは、私たちが光明に触れるときに、柔軟な心をたまわるということである。それは単に柔らかいということではなく、どこまでも頑固な自分の自身の姿が照らされるということであり、「我」を主体としていることに気付かされるということである。いつも自我を中心に生きてきた自らの実態と、そのような私であるからこそ、願いが差し向けられているという事実に頷かされることが、仏に出遇うことの具体的なありかたである。そして仏に出遇うことができたときに初めて、仏を敬うのと同じく、仏の大悲を生きているすべての他者を敬う柔軟な心が、私に起こるのだと説かれているのであろう。

私たちは、自らの尺度を信頼して日常生活を送っているが、その根底にある理性には、それによってもたらされる光の側面と同時に、闇の側面が存在する。光の側面は、いうまでもなく個性を尊重し、人間性を大事にする。自由や平等を標榜し、そのための社会を実現しようという力となる。しかし、そこに潜む闇の側面にそろそろ私たちは向き合うべきではないだろうか。人間が理性の本質に持っている自己への執着と、それによる自己正当化。それは結局、自分の考えに相手を従わせることによってしか、何も解決できいないという袋小路へ入り込む。これが闇の側面であろう。ドイツのユダヤ人社会心理学者E・フロムは、「人間の残虐性と破壊性は他の動物とは異なる。何故なら、食べるため、防衛のために攻撃するだけでなく殺すために殺すという殺し屋になれるのだから」という。自由とか平等とかの正義のもとに、殺戮を正当化していくところに、理性に根拠をおく人間の闇の部分があることは、現代のさまざまな事象が証明しているのではないか。

親鸞聖人は、『正信念仏偈』に、「獲信見敬大慶喜」という一句を記しておられる。これは、一端「見敬得大慶喜人」と書かれたのを消して、書き直されたものである。この「見敬」ということは、もちろん仏を見て、仏を尊敬するという意味であろうが、同時に、見えた人を互いに尊敬する関係がどこで成り立つかということを課題にされたのではないだろうか。そしてそれが成り立つ根拠が、「獲信」ということであるというと考えられ、書き直されたと私は推測する。また、「獲」の字で、「信」の成就を示すのは、宗祖が自ら「獲の字は、因位のときうるを獲という」と注意されていることから、因位の仏の願心に照らされることこそが、われわれにとって信心の内実であることを強調されたのであると思われる。そこには、どこまでも仏の願心に、自らの主体のありかを問われ続ける以外に、相手を尊敬する柔軟な心は生まれないという、親鸞聖人畢生の確かめが輝いているように感じている。

(『ともしび』2009年12月号掲載)

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