宗祖としての親鸞聖人に遇う

雑行を棄てて本願に帰す

(三本 昌之 教学研究所嘱託研究員)

 宗祖親鸞聖人は、二十九歳の時、自力作善の心を棄て、本願他力の浄土門に帰入された。この慶びを、後年『教行信証』「化身土巻」に「雑行を棄てて本願に帰す」(聖典三九九頁)と記されている。「雑行」とは、「正行」に対してであり、「正行」とは弥陀他力回向の「念仏」である。それは「大行」ともいわれる。「雑行」は、念仏以外の自力作善の行である。「本願に帰す」とは、自力作善の心を棄て、他力の念仏を頂く身となることである。
 しかし、「雑行を棄てて本願に帰す」ことの難しさを痛感する。“ご門徒”も、お内仏にお参りして念仏を称えることも少なくなり、また念仏を称えても、追善供養・現世利益を求める自力作善の念仏であることが多いのではないだろうか。「個の自覚の宗教へ」という、五十年前の同朋会運動発足時のスローガンは遠くなっている。
 遺骨とお墓、追善供養がお参りの中心となり、亡き人へ追慕の情を抱くことを、信心と勘違いされている。それは聞法の抜け落ちたお参りである。わたし自身が教えを頂き教えに問われることがないお参りである。それは、極言すればご本尊を無視し、必要としないお参りである。情を超えて不変の法に遇わなければならない。
 また、健康・家内安全など現世利益で称える念仏も多く見受けられる。弥陀の「本願」と「わたしの願」の認識に大きなずれがある。
 弥陀は、煩悩を断つことができず生死流転の闇を迷い続けている一切全て、このわたしたちを、真実覚りの世界、浄土極楽に往生させようと、願を建てて下さった。しかし、煩悩まみれのわたしたちは、本願を自分の欲にすり替えてしまっている。
 ある“ご門徒”の家にお参りすると、お内仏の戸袋の前に紙の束が置いてあった。「…ジャンボ宝くじ」の文字が見えた。その“ご門徒”は、《わたしの願いを叶えてほしい。わたしの願いは、たくさんのお金を手に入れることである。宝くじに当たったら家を買い、旅行に行って、貯金をして…》と妄想をえがく。このわたしの願いとは、煩悩から生じている欲である。わたしの願と、阿弥陀如来の本願を勘違いし、同一と思いこんでいるのである。弥陀の超世の願、本願までも、自分の欲を叶えることとして受け取っている。我欲を叶えるために、阿弥陀如来をも利用しようとする、煩悩熾盛のわたしがいるのである。
 親鸞聖人は、

  浄土真宗に帰すれども
  真実の心はありがたし
  虚仮不実のわが身にて
  清浄の心もさらになし(聖典五〇八頁)

 と、「愚禿悲歎述懐和讃」に詠われている。これこそが、わたしたちのすがたであろう。
 親鸞聖人は、「愛欲の広海に沈没し名利の太山に迷惑し」「いずれの行もおよびがたき」「底下の凡愚」と、自身を厳しく見据えられ、雑行を棄てて「本願に帰」されたのである。
 この聖人の生きざまと教えを頂かなければならない。煩悩熾盛・罪業深重のわが身の事実を頷き懺悔し、「本願他力」の念仏を頂く身とならなければならないのである。
(『ともしび』2011年3月号掲載)

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