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宗祖としての親鸞聖人に遇う

斉しく悲引したまうや

(梶原 敬一 教学研究所嘱託研究員)

 親鸞聖人を宗祖とするということは、決して聖人の言葉を金科玉条とするということではありません。むしろ、そのように受け取ることを拒絶するものこそ親鸞聖人の言葉です。
 それはある意味では、宗教が、そのままの形では伝承することができないとする、仏教の末法思想と通底するものであります。
 その時に、易行をもって宗教の伝承を可能としようとされたのが、法然上人の選択念仏の思想だったともいえるでしょう。
 しかし親鸞聖人は、その法然上人との出遇いによって、自らを愚禿と名告り、愚禿の心によって賢者の信を受けとめていくことが、いかにして可能かを生涯の課題とされたのでありましょう。その思索と苦悩の記録こそが『愚禿鈔』ではないかと思います。
 そして、その思索を通して、易行として伝えられるものと、難信として断絶するものの絶対的矛盾を受けとめた時に、はじめて宗教心が大菩提心として伝承されることを顕らかにされたのが『教行信証』として私達に残された言葉だと思われます。
 『教行信証』には、「己が能を思量せよ」(聖典三三一頁)、「己が分を思量せよ」(同三六〇頁)と私達に教誡されています。
 それは「己の能」の自力無効によって、浄土の思想が全ての者の救いを完遂することを顕らかにすると同時に、その救いが一人ひとりの「己の分」によって異なった相を持ち、その異なりによって普遍的な救いとなることを示されているのでありましょう。そのことを「広大異門に生まる」(聖典二四五頁)と示されています。
 ですから,親鸞聖人にとって顕真実とは、浄土を顕すことだけでなく、同時に穢土を顕すものでなければなりません。そして、この浄土と穢土の二つの世界の用きこそが、私たちの生に真実を与えるものであります。親鸞聖人は、この真実を生きた者として、私たちに、これから生きていく根拠と力を自覚させることで宗祖として用きつづけているのです。
 そのような、宗祖としての言葉は、何よりも親鸞聖人自身の、愚禿としての自覚の中にある絶望と、その絶望を通した先にある希望を示すからこそ私達に具体的な力となって作用するのであります。
 「悲しきかな、愚禿鸞」と悲嘆される言葉をそのまま、「悲しきかな、垢障の凡愚」と呼びかけられた、その憶いを受けとめることこそ、私達が親鸞聖人を宗祖とするということに他なりません。
 そして、この絶望を通して伝わるものこそ末法思想として表現された宗教心をもって人間を成就する力となるといわれているのでしょう。「浄土真宗は、在世・正法・像末・法滅、濁悪の群萌、斉しく悲引したまうをや」(聖典三五七頁)という言葉こそ、私達が親鸞聖人を宗祖として生きる事に与えられる課題だと思えてなりません。そこから、親鸞聖人を学び、親鸞聖人に学ぶ学び方が明らかになるのではないかと思います。
(『ともしび』2011年4月号掲載)

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