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宗祖としての親鸞聖人に遇う

念仏の本源を尋ねる

(武田 未来雄 教学研究所研究員)

 親鸞聖人は、法然上人の教えによって頂かれた称名念仏について、

  「選択易行の至極」(行一念釈・聖典191頁)

と言って、一切の衆生を平等に救うために選び取られた究極の易行であると言われる。正に念仏は、誰もがたやすく、どこでも、いつでも出来る行であり、だからこそ、一切の人々が漏れることなく、平等の救いが実現されるのである。
 しかし、親鸞聖人は、その究極の易行をただ単に頂かれただけではなく、なぜそのような易行念仏を選択されたのかと、阿弥陀仏の選択の願心を尋ねていかれる。そこで、

  「煩悩具足のわれらは、いずれの行にても、生死をはなるることをあるべからざるをあわ
れみたまいて、願をおこしたまう」(『歎異抄』聖典627頁)

と、本願をおこされた本意を明らかにされたのであった。阿弥陀仏はなぜ念仏を選びとられたのか、その本源を尋ねると、そこには正に煩悩具足の凡夫としての自己のためであったと、自己のすがたが明らかにされるのである。念仏を選びとられた本願を明らかにすることは、同時に真実の自己自身を明らかに知らされることにもなるのである。正に念仏を尋ねていくことは、真実の自己自身との出遇いでもあり、そのことによって、はじめて念仏を頂くことが出来るのではないだろうか。正に、選択の願心の本意を尋ねることが、信心の課題であることが窺われる。
 曽我量深先生は、そのような行の一念について、

  「最後最終の一声」と言われ、それに対して信心の発起する信の一念については「最初の一念」を示すと言われる(『開神』「「行の一念」と「信の一念」」『曽我量深選集五巻』108頁)。

その事を川の流れに譬えれば、行の一念は、あらゆる念仏を伝え流れてきた歴史伝統の最終最後の到達点であり、信の一念は、そうした流れが涌き出る本源の泉を尋ねあてたことになる。
 私たちはその本源を尋ねることを辞め、伝えられた結果の念仏ばかりを我が物に奪い取ってはいけない。どこまでも流れついた最後の念仏をもとに、その念仏がどこから起こってきたのか、その本源を尋ねていかなければならない。そうでなければ、一声の念仏は最後とは頂けずに、念仏を手段として、更なる結果を求めることになるであろう。そこでは念仏は自力の念仏となり、臨終来迎を祈る念仏となってしまう。
 そうではなく、念仏は最後の一声であり、その念仏の一声において、人生のあらゆる経験がこの一声に到達するためのものであったと、あらためて自分の人生を捉え直すことができるのではないだろうか。曽我量深先生は、日々の念仏とはこの最後の限りなき連続であると明かされた。
 正に念仏を選択された本源の願心を尋ねあてたとき、念仏は最終最後の一念であると肯かれるのである。お念仏申すとは、そうした大いなる流れの中に自己を見出し、その流れにまかせきる自身として、そこに立って生きていくことではないだろうか。

(『ともしび』2012年12月号掲載)

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