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宗祖としての親鸞聖人に遇う

教如上人と「ふるさと」

(上場 顕雄 教学研究所嘱託研究員)

 本年は東本願寺を創立された教如上人の四百回忌に当たる。上人は信長・秀吉・家康と対応し苦労されたことでも知られる。
 上人の人格形成の一端は「頭」ではなく「肌」から感じとられたことが大きく影響していたのではないかと考える。上人は大坂(石山)本願寺で永禄元年(一五五八)誕生され、二十三歳まですごされた。その間、全国各地から本山へ上山した門徒の姿、同朋・念仏者が集う解放的な寺内の環境などを眼前にした日常であった。その環境が自ずと上人の人格や志願を育くんだといえるのではないだろうか。誰もが「ふるさと」の風景が生涯忘れられないのと同様である。
 上人四歳の時、親鸞聖人三百回御遠忌が十昼夜盛大に厳修された。御影堂、阿弥陀堂で法要があり、初めての行道が行われ、沢山の参詣者があった。幼い上人にとってたいへん印象深い法要であったことだろう。
 祖父・証如上人の時にできた寺内町には、各地から商人や手工業者らが集まり自由に営業する念仏者の活動、あるいは寺内各町の「綱引き大会」、能の観賞など文化的な行事が活々と繰り広げられた。そのような同朋・同行の姿を見ながら上人の日常は過ぎていった。
 しかし、上人十三歳の時、信長との石山合戦が始まる。各地から番衆として門徒が上山し、本山・御真影を護るための必死のはたらきを上人は見られた。各門徒にはそれぞれ家族もあったことである。その心情も上人は察知していたであろう。
 石山合戦終結の和睦に対し、父から義絶されながらも徹底抗戦を主張し籠城した上人の決意の背後には、上述の門徒・同行の行動があったと考えられる。宗祖を慕う真摯な門徒の心に共感された上人といえよう。上人の消息に「宗祖聖人の御座所を仏敵の信長軍の馬のひづめにけがされるのは無念」とある。この文言の根底には門徒が本山を死守してきた心情がうかがえる。
 「本能寺の変」後、本願寺は鷺森から貝塚,そして天満へ移転するが、その際、上人は秀吉政権の中枢にいた千利休に積極的にはたらきかけ、大坂に天満本願寺を成立させた。
 また、上人は東本願寺創立以前、隠居中の文禄五年(一五九六)、大坂に「大谷本願寺」を建立した足跡がある。その地は敢えて大坂城の北,渡辺である。これも天満本願寺と同様、旧縁の大坂本願寺を意識してではないだろうか。
 上人は東本願寺御影堂建設中に巨大な梵鐘を鋳造している。これは現在の東本願寺阿弥陀堂内に安置されている。その銘に「大坂大工浄徳」とある。「浄徳」の人物については不明であるが、法名であることから大坂の門徒と推定される。先の大谷本願寺の梵鐘銘にも大工は大坂の「我孫子杉本」(現大阪市住吉区)の家次という。
 教如上人はこれらの職人に大坂本願寺時代に出会ったのだろう。二十三歳まですごされた大坂本願寺・寺内町には「仏国土」ともいえる「報恩行」で活動する門徒の世界の雰囲気があり、それが上人の願われた教団のかたちとなっていったのではないだろうか。

(『ともしび』2013年3月号掲載)

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