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宗祖としての親鸞聖人に遇う

言葉の歴史

(都 真雄 教学研究所助手)

 改めて言葉の歴史は大切であると痛感することがある。それは言葉の歴史を知ることによって前よりも聖教の意味が明らかになった時である。しかし言葉の歴史を知るということはなかなか容易なことではない。日本語や漢文だけでも各々に長い歴史があるし、さらにそれが翻訳語や仏の教えの言葉となると、事情がより複雑になるからである。
 そもそも仏教の経論はインドから日本へと翻訳されながら伝来している。訳者は言葉では表現できない真実を表現しなければならないだけでなく、原語の意味と完全に一致しない、それと近似する言葉を用いることによってしか翻訳することができない。そのために意味が複雑になるのだろう。
 またそれ以外に意味が複雑になるのは、数種類のサンスクリット語などの原語が、一つの言葉に漢訳されるからであると思われる。現代の日本語からみると一つの言葉の中に、数種類の原語からの意味と、中国や日本での伝統的な意味と時代特有の意味、そして漢字そのものがもつ意味が混在する。そしてその混在することから起こる混乱と、さらにはそこに現代人の語感と、個人的な感情や意図が加わることによって新たな意味が創り出される。
 これはもちろん仏教術語だけではない。例えば自然という言葉についても同様だったようである。明治の頃もともと日本で用いられていた自然と、外来語の訳語として用いられるようになった自然との間で混乱があった。しかもその混乱の中にいる人は、そのことに気づかなかったという。
 ところがそのような言語的な問題を、仏教における過去の先輩たちは超えておられる。もちろんそれは仏のお力や善知識からの教えによるものであり、信仰上の実体験に基づくものであるが、一つには多読であり多聞によるものだろう。親鸞聖人が仏教術語について、あれほど偏りのない語感をお持ちなのも、様々な経論に通じておられたからであると思われる。
 ただ言葉の歴史が大切であるとしても、気にかかるのは、歴史と個人的な感情についての曽我量深先生の次の言葉である。

  個人的感情は妄念である。個人的感情も歴史にうらづけられたとき真実である。
(『歎異抄聴記』真宗大谷派宗務所出版部二七五頁)

 ここでの歴史とは、念仏に生きる者にとっての歴史的背景や事実のことであり、それは法蔵菩薩から七高僧そして親鸞聖人まで伝えられた伝統的な精神のことである。ただそれらのことを私たちに伝えてくださるのは仏や善知識や聖教である。聖教はその中の一つであり、誰もが確かめることのできることからも、やはり重要であると思われる。
 しかしどうしても聖教の言葉自体にとらわれてしまう。聖教は人間を絶対的な自由に導くものであるにも関わらず、気づかぬうちに個人的な感情のまま他者を否定し、自らを肯定し正当化してしまう。そのようになるのは凡夫の身としてはやむをえないことではあるものの、ただ悲歎し慚愧するのみである。
 そうであるからこそ曽我先生の言葉には、私たちにもそのことに気づいてほしい、個人的な感情や思いに終始することなく聖教の言葉にたずねてほしい、そのような意味が含まれているように思われてならない。  

(『ともしび』2013年12月号掲載)

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