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宗祖としての親鸞聖人に遇う

別離の悲しみと本願

(光川 眞翔 教学研究所助手)

 批評家の若松英輔氏が、たびたび柳宗悦の「妹の死」と「死とその悲みに就て」にふれて、悲しみの重要性について語っている。私も、その若松氏の指摘によって教えられ、そして柳宗悦の言葉に力をもらった。
 柳は「私達とても悲さや苦さがなかったら、かくも切に故人を想う事は出来ないであろう。」(ちくま学芸文庫『柳宗悦コレクション3 こころ』「死とその悲みに就て」52頁)と、故人を切に想うことができるのは、悲しみや苦しみがあるからであると言う。また、「悲みに於て妹に逢い得るならば、せめても私は悲みを傍ら近くに呼ぼう。悲みこそは愛の絆である。」(『同』「妹の死」42頁)と、悲しみという感情において亡き妹と逢い、その感情に自身と亡き妹とを結ぶ絆を感じとっている。柳にとって悲しみは、亡き人と繋がることのできる〈場〉であった。
 時に悲しみは、負の感情として忌避されることがある。しかし、柳が言うように、悲しみが故人と生者とを繋ぐ大切な〈場〉となれば、残された者にとってその感情はかけがえのないものとなる。そうであるならば、その感情は忌避され続けるものではなく、やがて生きる力へと転換されていくものであると言えるであろう。
 柳は、自身の悲しみに向き合う中で「涙なき思想をまことの思想と呼ぶ事は出来ぬ」(『同』「死の悲みに就て」49頁)と、悲哀の涙から生み出される思想こそが「まことの思想」であると語るのであった。
 悲しみをどこまでも受けとめていく柳の言葉にふれて、『口伝鈔』のある一節を思い出した。

ともに浄土の再会をうたがいなしと期すとも、おくれさきだつ一旦のかなしみ、まどえる凡夫として、なんぞこれなからん。

(『真宗聖典』670頁)

 互いに浄土で再び会えるだろうと期待していても、後れ先立つ悲しみに胸がしめつけられるのが、我々のごまかしようのない姿である。愛する者との別れが、人生でもっとも痛切であるとは、同じく『口伝鈔』が伝える一節である。この悲しみ迷える者の苦痛とともにするところに大悲の本願がある。

たとい妄愛の迷心深重なりというとも、もとよりかかる機をむねと摂持せんといでたちて、これがためにもうけられたる本願なるによりて……

(『真宗聖典』671頁)

 たとえ愛執の念に深く悩まされていても、はじめからそのような人を救おうと立ち上がったのが本願である、と。
 人の涙・悲嘆・嗚咽を知り、そこから発される本願は、涙する人と悲しみを同じくし、寄り添いつづけるものである。あらためて本願の教えが、人々の悲しみのただ中にあり、そして寄り添ってきた歴史の意味を考えさせられる。
 思うに、宗祖は九十年の長い生涯の中で、多くの別れを体験し、その数だけ涙を流していったであろう。その悲哀の中で宗祖は、悲しみを同じくする本願のこころにふれなおし、念仏申し、浄土を願われていった。悲しみの中で、静かに念仏申し、浄土を願って生きていった親鸞聖人の学びが、今あらためて大切であると感じている。

(『ともしび』2014年10月号掲載)

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