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真宗本廟教化リーフレット

お経に遇う

お坊さんが「ニョーゼーガーモン、イチジーブツ」と読んでいる声だけを聞いていると、お経には訳のわからないことが書かれているように思うかもしれません。しかし、お経には迷い苦しみを越えていく釈尊の教えが説かれています。いわば釈尊からのメッセージが詰まっているのです。ですから、お経を読むということは、本来は釈尊の教えに出遇うことなのです。
ところが、私たちは自分が迷いの人生を送っているとは、日ごろ思っていません。そのため、自分がお経に出遇う必要があるとは感じておらず、他人事のよう に考えています。亡くなった人にお経を読んであげないといけないというのも、そのあらわれです。亡くなった人がお経を聞いているかどうかを、確かめたことがないにもかかわらずです。
ましてや、お経をお坊さんだけに読ませて、自分は聞くこともなく済ませているのであれば、それは亡くなった人を大事にしているのではありません。単に自分がすっきりしたいだけの気やすめにすぎません。お経はどこまでも、私たちに対する呼びかけであるというのが大事な点です。
たとえば、親鸞聖人が真実の教と仰いだ『大無量寿経』には、次のような言葉があります。
「吉凶禍福(きっきょうかふく)、競(きそ)いておのおの之(これ)を作(な)す。一(ひとり)も怪しむものなきなり。」
これは、吉凶や禍福にとらわれている人間の姿を教えようとする釈尊の言葉です。自分に都合の良いことばかりを追い求め、お互いに競い合い、しかも自分のしていることを正しいと信じ込んで怪しむこともない生き方が見据えられています。
日ごろは疑ったこともない自分の生き方を見つめ直すこと、これがお経との出遇いによって始まるのです。この意味で、お経は私たちの生き方を照らし出すものだといえます。

一楽 真 大谷大学教授

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