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待つ

(本明 義樹 教学研究所研究員)

 インターネット通販各社で、商品を注文してから配達までの時間短縮競争が激化している。注文してから一時間以内や、二〇分以内に配達するというものまで出てきた。すでに鷲田清一氏は十年前の著書『「待つ」ということ』において、

現代は待たなくてよい社会、待つことができない社会になった。私たちは、意のままにならないもの、どうしようもないもの、じっとしているしかないもの、そういうものへの感受性をなくしはじめた。


と指摘している。「待つことができない」人間の欲望を満たすため、「待たなくてよい社会」は日々進化し続けてきたのである。しかし生老病死のように人生の根幹に関わる事柄は、どれだけ人知を尽くしても「意のままにならない」。私たちはいつから「そういうものへの感受性をなくしはじめた」のだろうか。
 阿闍世の父、頻婆裟羅王は、

我今、年老いて国に継祀するもの無し。更に三年を満たんこと何に由てか待つべき(真宗聖教全書(一)四六九頁)


と、我が子の出生という「じっとしているしかないもの」を待てず、三年後に生まれかわるとされた仙人を殺めてしまう。待てないもののありようが、待つ対象に心を奪われ、焦りだけが生じ、ついには耐えきれなくなり、自らを害し他を害することを示している。王舎城の悲劇は二千数百年前、待つことができなかった一人の人間に端を発しているのである。「感受性をなくしはじめた」のは現代のことではなく、自我欲望に執着する人間の本来性に深く根差しているものといえよう。

 そもそも「待つ」こととは、忌避されるべきものなのだろうか。恵信尼は消息で「今は時日を待つ身」(聖典六二三頁)と、老媼となった今、ただ死を待つ身であると繰り返し述懐している。しかし、この「待つ」は「どうしようもない」生老病死の現実に絶望した悲嘆の言辞などではない。八十歳を超えてなお、孫たちの成長を案じ「母めきたるよう」必死に暮らしを支え、「犬のように」駆け回るといった、いのちの躍動にあふれた「待つ」なのである。それを可能にしたのは「わが身は極楽へただ今に参り候わん」と、待つ身であると同時に、待たれてある確かな世界を感覚していたことによるのであろう。

 そして何よりも、恵信尼が様々な生活苦の中で残り少ない生を甘受し、死を待ちきることができたのは、「浄土にてかならずかならずまちまいらせそうろうべし」(聖典六〇七頁)と、浄土での再会を期す宗祖の呼びかけを自己一人への呼びかけとして聞き、待たれているもの、願われているものとしての自己を見出すことができたからに違いない。

 意のままにならない、そういうものへの感受性とは、「いのち」そのものにかけられた呼びかけに耳を澄ませ、その願いにふれたところに「たまわる」ものといえるのではないだろうか。

(『ともしび』2016年4月号掲載)

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