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聞

以前のままの、ものさし

(松林 至 教学研究所嘱託研究員)

 「私のものさしで問うのではありません。私のものさしを問うのです」。幾度となく、仏法聴聞についてそのように教えていただいてきた。あらゆることを自分のものさしで裁き続ける私の在り方こそが問われてくる。それが聞法の功徳であろうと思う。
 しかしである。ものさしを問うとは言いながら、そのことがまた私のものさしでなされていく。私が私を問うことは原理的に不可能である。それでも、問われる側に身を据えられず、すぐに自分で自分を裁いていく。私にはそれしかない。いつでもそのようなことを繰り返しているのがこの私だということこそが、聞法によって知らされるのである。
 仏法では人間の苦悩の在り様を、迷いの内を巡り続ける「流転」と説いてきた。親鸞聖人は『教行信証』の総序において、真実の教えに出遇ったことを慶びながら、「もしまたこのたび疑網に覆蔽せられば、かえってまた曠劫を径歴せん」(聖典一四九頁)とおっしゃっている。「また」疑いに覆われることがあれば「また」埋没していく。私の迷いの姿を照らし出す仏法には、いつでもまた同じ迷いのなかへ沈んでいく姿が併せて指摘されてあるのだと思う。
 私に、福島県で寺院をお預かりしている知人がいる。先日彼と話をしていて、「復興という言い方に違和感を覚える」との言葉が耳に残こった。東日本大震災の後、「一日も早い復興を」という言葉に追い立てられるようにここまでやってきて、疲れきり、自分たちが何をやっているのか分からなくなっている。求められているのは本当に「復興」なのだろうか、と語ってくれた。今なお原発によって被災し続けている福島の地で感じる彼の違和感がどのようなものなのか、私に推し量ることはできないが、自分なりに考えさせられる言葉であった。
 あの震災は私たちのものさしを問う出来事だったはずである。あたりまえでない日常をあたりまえとしていた自分。何も考えぬまま原発に依存してきた生活。無自覚であった驕りや無関心が表出し、それまでの尺度が震災から激しく問われた。
 しかし、「復興(またおこす)」という号令のもとに、私たちはいつの間にか以前と同じものさしで震災を片付けようとしているのではないか。「復興」とは単にあの日の豊かさ、便利さを取り戻すことを指すのだろうか。新たな思いが街を興していくのならそれは「新興」と言えるのかもしれない。今、本当に考えねばならないこととは何であるのか。
 この国において原発はまた稼動し始めた。彼が言った「復興への違和感」は、あのとき問われたことを、まるでなかったことのようにしていく私の態度へ向けられたものではないかと感じている。生活の再建という「復興」に寄り添いたいと思う。しかし、問いの前に立ち止まることのできない私において、問題を自らまた覆い隠していくような「復興」になってはいないか。彼の違和感が、実は握りっぱなしの私のものさしを炙り出している。

(『ともしび』2016年7月号掲載)

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