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「門徒一人もなし」からの再出発

(花山 孝介 教学研究所嘱託研究員)

 日頃、ご門徒との関わりの中で改めて考えさせられるのが、「自分にとって同朋会運動とは何か」ということである。同朋会運動については、これまでにも歴史的経緯やその願いについて学んできた。にもかかわらず、改めて自分に引き当てて考える時、どこか漠然とした受け止めしかしていないのではないかという思いに駆られる。この様な思いを持つ中で、ある先生の言葉にハッとさせられた。
 それは、「同朋会運動に一貫して流れていることは何か。それは、『歎異抄』序にある「先師口伝の真信に異なることを嘆く」という悲しみを通して、自らが「生活全体を教えに聞き続けながら、仏弟子になろう、門徒になろうという運動」という言葉である。この言葉を聞いた時、「門徒一人もなし」という言葉を思い出した。
 今年は、「大谷派に一万の寺院、百万の門信徒があるといいながら、しかも真の仏法者を見つけ出すことに困難を覚える宗門になってきているのである」といわれた宮谷法含の「宗門白書」(『真宗』一九五六年四月号)が出されて六十年経つ年である。そこには、当時の宗門の厳しい現状を踏まえつつ懺悔に基づきながら、改めて親鸞の教えに生きる者になることが願われている。その願いを信仰運動として提唱したのが同朋会運動である。その運動の願いを推進するために取り組みが計画されていくが、その計画の基礎に「門徒一人もなし」という懺悔があり、その視点を私は見失っていたのではないかと思ったのである。
 そもそも、親鸞にとって「門徒」とはどのような意味を持つのか。例えば、「源空光明はなたしめ 門徒につねにみせしめき 賢哲愚夫もえらばれず 豪貴鄙賤もへだてなし」(聖典四九九頁)と和讃されるように、親鸞にとって「門徒」とは、師法然開顕の本願念仏を唯一の根拠とするところに開かれる、平等なる人間関係を意味する言葉ではなかろうか。しかし、今の自分を振り返る時、僧分と門徒という立場を無意識に分ける中で、僧侶という地位に胡座をかきつつ、いつしか宗祖の姿を見失い、懺悔の叫び声も忘れていたのである。
 その様な私に、「門徒一人もなし」という厳しい懺悔の言葉は、改めて「あなたにとって同朋会運動とは何か」という大事な課題に向き合わせてくれるものである。
 同朋会運動がこれからの宗門の中心であり続ける為には、この運動が「門徒一人もなし」という懺悔から始められた意味を一人ひとりが確かめる必要があろう。そこに大谷派宗門の進むべき方向性が見出されるのではなかろうか。
 と同時に、このことは、まさに宗門に身を置く私自身の課題である。これからも、この「門徒一人もなし」という一点を忘れずに、宗祖の教えに自身を聞き続ける学びを通して、「本願念仏の基に共に門徒として生きよ」という宗祖の呼び声を胸に刻みながら歩みを続けたいと思う。  

(『ともしび』2017年8月号掲載)

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