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本当の願い

(本明 義樹 教学研究所研究員)

 それほど必要でないものをつい買ってしまうことがある。企業広告のみならず、なにか消費社会そのものが、私たちの欲望を駆り立て、消費行動へと向かわせているようである。経済学者のJ・K・ガルブレイスは、『ゆたかな社会』(岩波現代文庫・一五頁)のなかで、生産者に消費者の欲望が支配され、欲しいと思わされている社会のありようを「自分の欲しいものが何であるかを広告屋に教えてもら」わなければならなくなったと指摘している。なお、この本が半世紀以上前の一九五八年に刊行されていることにも注意したい。人の欲望の問題は時代を問わないものか。
 『観経』の「王舎城の悲劇」は、阿闍世が提婆達多に(そそのか)され、父王を幽閉することに端を発する。その後、(つみ)なき王を害し、そのことを深く後悔することになる。善導はこの悲劇を端的に、「闍王怳惚(こうこつ)の間に、悪人の(あやま)るところを信受」(『真宗聖教全書(一)』四六九頁)すと述べている。阿闍世が「怳惚の間」つまり、無自覚のうちに提婆達多の虚言(きょごん)を信じ、それを自己の欲望として悲劇と後悔を招いたのだと。この善導の確かめを通して見たとき、この悲劇が「怳惚の間」に生きる私たち、現代社会の無明性を言い当てているように思われてならない。
 私たちは幸せになれると信じ、今よりももっと快適で、便利な生活を求めて懸命に生きてきた。そして、豊かになった今も、他人と比較して自分の不足しているものを手に入れようと躍起になっている。しかし、それは果たして「私自身」から生じた欲求、本当の願いといえるだろうか。社会環境に唆され、自己中心的で効率的であることが第一であると信じ込み、阿闍世がそうであったように無自覚のうちに無縁社会や格差社会を生み出しているとしたらどうだろう。それは「現代社会の悲劇」といえないだろうか。
 そもそも、私たちに本当の願いなどあるのだろうか。他者の目を気にし、宣伝や口コミ情報に踊らされ、「手に入れたい」、「ああなりたい」と思わされているのであれば、それは到底本当の願いとはいえない。けれども、それを自分の願いと信じ、問うことすらない。「私自身」が何ものかに支配され、振り回されて一生を過ごすことほど「空過」、つまり空しい人生はないというのに。
 親鸞という人は、自身の願いや欲望を、徹底して問われた人である。「彼の国に生まれんと願ず」の「願ず」るという一語に対面し、誰もが素通りするなか、そのまま自己のこととして受け止めることが出来ずに一人立ち尽くされたのである。親鸞によって見出された浄土七高僧の伝統とは、人間の願いの不実さと真向かいになった「問いの歴史」に他ならない。

本願力にあいぬれば
むなしくすぐるひとぞなき
功徳の宝海みちみちて
煩悩の濁水(じょくしい)へだてなし

(『真宗聖典』四九〇頁)

 本当の願いとは、この私のいだく願いのうちにはない。願いなき私にかけられた大悲如来の願いをただ聞くところに、空過を超える唯一の道が開かれるのである。現代社会に氾濫する虚言に翻弄されつつも、本願との出遇いの歴史によって紡ぎ出された教言を通して、自らの歩みを見直したい。

(『ともしび』2017年10月号掲載)

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