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聞

今を生きる

(安藤 義浩 教学研究所嘱託研究員)

 あるテレビ番組で、「今を生きると聞くと、すごく刹那的で、将来のことは考えなくてもよいのでしょうか」と、出演者が質問している場面があった。その人は、今を刹那の一点だけでとらえ、その一点だけよければよいという刹那的生き方が、今を生きることではないか、と疑問を持ったのである。私自身もそのように感じたことがあり、親近感を覚えたものだった。
 真宗の場合はどうか。金子大榮氏の言葉に、

永遠は現在の深みにありて未来にかゞやき、常住は生死の彼岸にありて生死を照らす光となる。

(『歎異抄領解』コマ文庫、一九七八年、三四頁)

というのがある。この言葉が的確に言い当てているように、真宗的「今(現在)」は、その「深み」において「永遠」が感得され、つながっている。この永遠は無量寿ということであろう。だから単に刹那なのではなく、通常の時間軸を超越した永遠を背景としている。したがって、今を生きるとは、「永遠」に照らされて生きることである。さらに言えば、生きる・生きないという人間のはからいを超えて、そのような今をすでに生きている、そのことへの目覚めを指すのであろう。
 しかし、永遠を背景とする今を信知しても、人間の性質として、二つの落とし穴が待ち構えている。一つは「永遠」に腰をおろそうとすること、もう一つは「今」に腰をおろそうとすることである。前者で言えば、人間は、その業の深さゆえに、感得された永遠までも自我意識に取り込もうとする。すると「永遠」は「自分勝手な思いはからいの永遠」へと変わり、格好の現実逃避の場所となる。真の永遠は、そんな人間のあり方を照らし、人間を今に引き戻すはたらきをなす。宗教は現実逃避ではないかという声をしばしば聞くが、真の宗教は現実を課題としていくのである。
 また、人間には、ちょっと前(かなり前)の今に腰をおろそうとし、現前する今を見失う傾向がある。それは、今が絶え間なく動いていることに無自覚であったり、動いていることを認めたくなかったりするからであろう。伝統が因習に堕ちたり、成功体験に縛られすぎて柔軟性を失ったりするのは、このことが大きな要因ではなかろうか。
 私の場合、絶え間なく動く今を、子どもたちの日々の成長ぶりに感じている。前の日にできなかったことが次の日にはできるようになっている姿に驚愕し、動かない自身の思いが否応なくあぶりだされ、そして、確実に老い、死へと向かい続ける自身の今と向き合うこととなる。彼らの屈託のない満面の笑みや目一杯の泣きっぷりは、私を乗せて前に進ませてくれる船である。この船は成長に伴い、いつか無くなってしまうだろうけれど、無くなるその日まで、大切に乗せてもらい、心にとどめておきたいと思う。彼らは今を生きている。

(『ともしび』2018年1月号掲載)

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