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ごめんなさい ありがとう

(難波 教行 教学研究所助手)

 昨年の御正忌報恩講中、六歳の息子が唐突に私に話しかけた。
 「南無阿弥陀仏って『ごめんなさい、ありがとう』っていう意味なんやろ。」
 その言葉に驚いた私は、彼に話を聞くと、十一月二十三日に真宗本廟で勤まった子ども報恩講のつどいへ参加した際、そう教えてもらったとのことであった。なるほどと思いつつも、何に対する「ごめんなさい、ありがとう」なのか、思いを巡らせる機縁となった。
 南無阿弥陀仏が本願の名号である点に注意すれば、それは、本願に対する「ごめんなさい、ありがとう」であると、ひとまずは言うことができるだろう。
 その本願とは何かを説明することは難しいが、法蔵菩薩が十方衆生を救わんがために建てた誓願である。そして親鸞聖人は「弥陀の五劫思惟の願をよくよく案ずれば、ひとえに親鸞一人がためなりけり」(聖典六四〇頁)と言う。
 十方衆生を救おうと願い、それが誓いとなり、成就している。そう聞くと、私の思いと相反した誓願であると思わずにはいられない。むしろ、本願と私の接点は、どこまでも私が本願に背いているというところにあるように思われる。であればこそ、親鸞聖人は「十方衆生がため」ではなく、「親鸞一人がため」と言ったのだろう。
 私に「世界中の人々が幸せでありますように」といった思いが漠然と芽生えないわけではない。しかし本願によって、私は、どこまでも私の思いを中心としていると教えられている。その思いは、私自身や他者を、容姿や経歴、能力等の言わば付加価値をもとに評価し続けているのである。
 そう考えたとき、以前目にした福島智氏(東京大学先端科学技術研究センター教授)の言葉が憶い起こされた。福島氏はある対談で、学生たちが自他を評価し合い、苦しんでいる様子について、次のように述べている。

 例えば地面にアリの行列があって、前のアリより後ろのアリがだめだとか、自分より前を歩いているアリの方がいいんだみたいな、数直線状に人間を並べているようなものです。(中略)前後に並んでいるアリが大事なのではなく、上から見れば皆同じアリです。そういう「上」との関係が大事なのであって、その関係を気づかせるのが私の言葉では宇宙であり、田口さん(引用者註:対談者)の言葉では、仏なのだろうと思うのです。

(『同朋新聞』二〇一七年三月号)

 アリに譬えられる私たちは、決して上からの視点で見ることはできない。できるのは付加価値によって評価してやまない私たちの姿を聞き、気づかされることだけである。
 気づかせるはたらきが本願ならば、「ごめんなさい」とは、私の思いによって評価され続けている私自身と他者に対するものなのではないか。その「ごめんなさい」においてのみ、本願への「ありがとう」があるのだろう。

(『ともしび』2019年2月号掲載)

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