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明智光秀と本願寺

(御手洗 隆明 教学研究所研究員)

 明智光秀(?~一五八二)は戦国時代の武将である。出自など定かではないが、永禄年間(一五五八~七〇)の後半には将軍・足利義昭と織田信長の双方に仕え、やがて信長のみを主君として各地を転戦し武功をあげ、近江国坂本(滋賀県大津市)や丹波国(京都府中部等)を領有した。羽柴秀吉とともに信長の重臣となったが、天正十年(一五八二)六月二日の「本能寺の変」で信長を討つ。そのわずか十三日後に秀吉に討たれ、「光秀の三日天下」と評される。光秀は謀反人として歴史に名を残したが、自領では善政を敷き、丹波亀山城(京都府亀岡市)や福知山城(同福知山市)などを築いた。現在も地元では名君として親しまれている。
 その頃、大坂本願寺(大阪市)を本山とする本願寺教団は信長と対立し、「石山合戦」と総称される信長軍と一向一揆勢との戦いを各地で続けていた。光秀も信長軍の主力として参戦し、大坂本願寺を包囲したが苦戦している。ところで、戦闘以外での光秀と本願寺との接点はなかったのであろうか。
 本願寺十二代教如の側近が記録した『宇野新蔵覚書』(本願寺坊官覚書)には、没落していた元光秀家臣の浄念が教如にお剃刀を求めた時、反対する側近たちを教如が「本願寺は慈悲をもって本とす」と退けたという逸話が見える。東西分派後の出来事と思われ、光秀に直接関わるものではないが、かつて戦火を交えた仏敵という恩讐や身分を越えようとする教如の姿勢がうかがえよう。
 光秀と本願寺との因縁は、江戸時代の真宗史書(『大谷本願寺由緒通鑑 第三巻』、『金鍮記 巻上』等)も伝えている。本能寺の変の前月、四国攻めのため堺周辺に集結していた織田の軍勢は、実は当時紀州(和歌山県)にあった鷺森本願寺を目標にしていた。六月三日、織田軍の来襲によって本願寺は滅亡するかに見えたが、突然織田軍が引き上げたため危機を脱した。信長が本能寺で光秀に討たれたことを知ったからである、と伝える。信長時代の記録には見えず、東西本願寺が光秀を顕彰したという事実もないが、興味深い伝承である。
 光秀の遺跡は、現在の東本願寺本山にもあるという。光秀の丹波亀山城は、時の政権から重視されて存続し、丹波亀山藩の城として明治十年(一八七七)の廃城まで続いた。明治十三年(一八八〇)、廃城処分が進む城堀の石垣の一部が保津川をくだり、東本願寺に運ばれ両堂再建工事に用いられたと、現在この城址に本部を置く宗教法人「大本」は伝える(みろく会館「ギャラリーおほもと」展示年表)。
 この城堀石垣が光秀時代のものなのか、東本願寺境内のどこにあるのかは定かではないが、真宗史書が光秀によって本願寺が窮地を脱したと伝えていることを思うと、ここにも時代を超えた因縁があり、東本願寺が様々な歴史の積み重なりによって成り立っていることをあらためて知る。来年、光秀は「大河ドラマ」になるという。この本願寺との知られざるエピソードを加えてはいかがだろうか。

(『ともしび』2019年4月号掲載)

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