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絶望の中にあって

(松下 俊英 教学研究所助手)

むりをして生きていても
どうせみんな
死んでしまうんだ
ばかやろう

 これは、三田誠広氏の『いちご同盟』(集英社)という青春小説に出てくることばです。この小説は、十五歳の主人公・北沢良一が、将来に悩み死を意識するのですが、心を許す仲間ができ、思春期を懸命に生きていくことを描いています。
 北沢が将来の進路決定に考えあぐねている時のことです。近くで起こった、ある少年の自死現場に足を向けます。その現場付近に書き残されていたのが、先のことばです。亡くなった少年が書いたもので、彼は担任の先生とは反りが合わなかったようです。
 ある意味で達観したようなこの発言に、どのようなことばを返すことができるでしょう。生きていれば良いこともきっとある、だから生きようではないか。みずから死を選ぼうとする人にたいして、このようなことばは、いかほどの意味をもたらすのでしょうか。
 生きていても、いずれ必ず死がおとずれる。それは、名誉や利得など、欲するものによって築き上げ、満足していた人生の崩壊を意味します。「むりをして生きていても」ということばがそれをあらわしています。そして、そのような自分の人生に意味や価値がなくなってしまうという悲嘆が、「ばかやろう」という心の叫びなのかもしれません。
 先日、私は交通事故にあい、車を替えることになりました。事故のショックがあったはずなのに、数日後には車を選ぶ楽しみが湧いてきました。それは自分を喜ばせるものによって、すべてが壊れ去るという虚無感を埋め合わせているかのようです。
 約二千五百年前のインドで、出家前の青年だったお釈迦様は、城外に出られた時、老病死を目の当たりにされました。その際、お釈迦様の驚懼に暮れた様子が四門出遊の物語として経典に描かれています。
 ところが、お釈迦様はそこから立ち上がり、出家という形で前に歩みだすことになったのです。それは後に仏となられる方だからだ、という簡単な理由で片付けることはできません。なぜなら、そのような理由付けの裏側には「仏様はやっぱり特別なのだから、私になんか歩みだすことなんてできやしない」という、自分に対する仕方のないあきらめの気持ちがあるからです。
 同様に、私に生きる意味や価値がないという悲嘆は、自分に生きる意味や価値があってほしいという切実な願いの裏返しでもあります。
 死を前にして虚無感に陥らず、それを埋め合わせるように楽しみを追い求めるでもなく、仕方ないとあきらめるでもなく、お釈迦様が人生を歩みだせたということは不思議なことです。
 人は希望がなければ生きていくことはできません。絶望の中にあって生きることがはじまるのはどのようなことを意味しているのでしょうか。老病死によっても崩壊しない希望とはどのようなものなのでしょうか。
 「生きていても死んでしまう」という課題が、このような問いかけをおこし、そしてお釈迦様の歩まれた道を求め、教えを聞いていこうとする心を育んでいくのだと思います。

(『ともしび』2019年8月号掲載)

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