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真宗本廟と覚信尼

(上場 顕雄 教学研究所嘱託研究員)

 真宗大谷派の宗憲の「前文」に「この宗門は、本願寺を真宗本廟と敬仰する聞法者の歓喜と謝念とによって伝承護持されてきた」とあり、また、「真宗本廟は、宗祖聖人の真影を安置する御影堂及び阿弥陀堂を中心とする聖域」(宗憲第三章)とある。この「真宗本廟」の呼称の根本や源流などは、どこに発端があるのだろうか。一般的・通称としては、東本願寺や「ご本山」と呼ばれている方がむしろ多いのではないだろうか。
 これらを考える場合、宗祖の末娘・覚信尼の存在や願いを看過できないと考える。そこで覚信尼の生涯や事績を紹介したい。
 覚宗祖五十二歳の元仁元年(一二二四)、関東で誕生した。宗祖が関東から京都へ移住され、命終まで彼女は常に宗祖のそばにいたのである。また、同年は「立教開宗」の年とされる。
 入洛した覚信尼は、当初、久我通光に仕え、後に日野広綱と結婚し、その間に覚恵が誕生した。覚恵七歳の時、広綱は没した。
 恵信尼が越後へ帰郷した後、宗祖の身辺の雑事を助けたのは覚信尼である。宗祖が弘長二年(一二六二)十一月命終され、それに立合い、葬送・拾骨などの諸事対応に携わったのも、覚信尼であったと考えてよいだろう。
 宗祖の墳墓は、鳥辺野の北、大谷の地に建てられた。関東などの門弟らは、宗祖への敬慕・追慕の念から、当然参詣に訪れた。もちろん、宗祖の「今現在説法」に耳を傾け、勤仕するためでもあろう。当初の墳墓は石塔が建てられ、周囲に木棚をめぐらした簡素なもののようである(専修寺本、親鸞伝絵)。門弟にとって物足りない心淋しいものであったと考えられる。
 そこで、覚信尼は宗祖命終十年後の文永九年(一二七二)墳墓を改葬し、吉水の北方に廟堂を建立し宗祖の御影を安置した。その土地は、覚信尼が再婚した小野宮禅念の所有であった。禅念は亡くなる前年に覚信尼にそれを譲っており、覚信尼の私有地となっていた。
 問題は、覚信尼がこれら土地を聖人の「はかどころ」に寄進し、関東の門弟へ披露の書状を送っていることである。建治三年(一二七七)、関東の「御でしたちの御なか」へ送った覚信尼のその「大谷屋地寄進状」に、彼女の願いがこめられている。その文言で、

「しんらん上人の御でし(弟子)たちの御心にかないて候はんものをば、この御はかどころ(墓所)を、あづけたひ(給)候(中略)上人の御めうだう(廟堂)の御ち(地)とさだめて、ゆめゆめた(他)のさまたげ(妨)あるまじく候」

などが注目されよう。
 覚信尼は、「廟堂」・「影像」・「敷地」の三点を門徒共有にする意図を表明したのである。それは、廟堂を永遠に維持していく願いが覚信尼にあったからでもある。また、覚信尼にとって、子孫に違乱があってはならない懸念もあったと思われる。
 真宗本廟の呼称の原点をたずね紹介してきたが、その精神が根本となり、「宗憲」に明確化されていよう。

(『ともしび』2019年10月号掲載)

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