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「不信と執着――『罪と罰』に寄せて」

(中山 善雄 教学研究所研究員)

 ドストエフスキーの『罪と罰』のエピローグに美しい場面がある。自身の犯罪によりシベリアの監獄に入れられたラスコーリニコフは、過酷な環境から病気になり入院する。ある日の夕暮れ、ラスコーリニコフが病室の窓辺に何気なく寄ると、そこにはソーニャという、彼の流刑に伴ってきた女性が佇んでいた。その姿は何かを待っているように感じられ、その瞬間、何かがラスコーリニコフを貫いた、と描写されている。
 直前には、ラスコーリニコフが一つの夢を見ている。全世界が未知の微生物に取りつかれ、それに感染すると、人々はかつて抱いたことのないほど強烈な自信をもち、自分の信念は正しいと思い込み、それにより殺し合っていくという夢である。その夢は、自己の信念に基づいて殺人した彼を苦しめていく。
 私が感動させられるのは、ラスコーリニコフが正義の主張により人を傷つける痛ましさを感ずることが、ソーニャという、キリストの愛を象徴する小さな存在により身を貫かれることと、重ね合わさるようにして描かれていることである。そのことが表しているのは、自分を待ち続ける深い愛が身に届けられることを通して、はじめて人は、自分の正しさに執着することの痛ましさを、身をもって知ることができるということではないか。
 ドストエフスキーは、正しさへの執着と傲慢のもとには、キリストの愛を知らないこと、愛への不信があることを描こうとしている。『罪と罰』という題の「罪」とは、自己の正義に執着することの根本にある、この「不信」を意味している。そして「罰」とは、不信という根本的罪が必然的に招く、自己の正義への執着、それにより傷つけ合う痛ましい現実や孤独を意味しているのではないか。罰とは言っても、罪への裁きより、むしろ罪に対する神の痛みを表現していると私は感ずる。そのような、時代と立場を超えた普遍的問題を提起しているのが、『罪と罰』という題である。
 正しさに執着する問題は、様々な場面で説かれる。それは大切な問題であるゆえに、私はその根本にあるものを課題としていきたい。右のことに関連して言えば、正しさへの執着のもとには、不信がある。過ちを裁かない真実の愛に対する不信があるからこそ、私たちは裁かれることを畏れ、正しいものであることに執着せざるを得ないのである。
 『罪と罰』は、『ヨハネ福音書』の「ラザロの復活」を主題として著されている。奇しくも同時代に同主題で著されたキルケゴールの『死に至る病』では、ラザロの「死に至る病」とは「絶望」であり、絶望こそが罪であると言われている。私的な解釈であるが、それは神の愛の前にありながら、自らの存在が赦されてあること、愛されてあることを不信することから生まれる絶望ではないかと思う。先に記した正しさへの執着も、その絶望の一形態であろう。
 不信という死に至る病からの復活。ドストエフスキーの描いたその曙光は、深まるその病を、今日なお照らし続けているように感じられる。

(『ともしび』2020年2月号掲載)

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