ラジオ放送「東本願寺の時間」

黒田 進(滋賀県 満立寺)
第1話 「無言の教え」 [2005.11.]音声を聞く

おはようございます。
今日から6回にわたって、「今、いのちがあなたを生きている」というテーマを通してお話させていただきます。
第1回は「無言の教え」といたします。
私は日頃、生きていることをあたり前にして、いのちのことなど気にもかけずに過ごしております。そういう私たちが、否応なく、生きていること、そしていのちについて目を向けさせられるのは、大切な人を亡くした時ではないでしょうか。生きていることがあたり前でなかった、いのちあることがあたり前でなかったと、そのとき思い知らされるのであります。その意味では、大切な人の死は大きな悲しみであり、そのことを受け止めることは容易ではありませんが、また、その死の事実は、私たちにいのちあるものの身の事実を、まことに厳粛に教えてくださるのでありましょう。
そのことを私自身の身の事実として受け止める時、大切な人の死は、私にとって無言の教えとして響いてくるのだと思います。
思えば、お互いにどれほど多くの人の死に出あってきたことでしょう。その度に悲しい思いをし、また寂しい思いに沈んだのでした。過日もある研修会の座談会で、40代と見られる1人の男性がこんなことを話されました。
「幼い息子を亡くして、もう1年が経ちます。私はようやく少し、そのことを受け止めようという気持ちになってきたのですが、女房はまだダメです。」と。その方は、最愛の息子さんの死をなかなか受け止められない中で、何とか受け止めようとされている。しかし、奥さんはとても受け止められないのだと。その悲しみの深さ大きさは、計り知れないものなのでしょう。人は皆、人知れず、悲しみの心をどこかに抱いて生きているのかもしれません。
仏説無量寿経というお経の中に、「見老病死、悟世非常」、老・病・死を見て、世の非常を悟るという言葉があります。年老いていくこと、病におかされること、そしていつかはいのち終えていくこと、そういう身の事実に真向かいになり、ごまかすことなく見て、人の世の非常、つまりいのちあるものの常ならざることを悟られたという言葉です。老いること、病におかされること、死すること。これは誰も避けて通れないことです。が、その事実を見ているが、真向かいになって受け止めているかとなると、話は別ですね。なるべく見ないように、少しでも先のばしするように悲しい努力をしているのが私たちの常のあり様でないでしょうか。それは人間の正直な姿でありますが、また、ごまかしの姿でもあるのでしょう。今のお経の言葉は、人として避けることのできない老病死の事実を見る。つまり受け止める、そのことがすなわち世の非常を悟ることなのだと教えられているのです。そういう身の事実にしっかり立って生きよという教えなのです。
実はそのことを、お釈迦様自身が身の事実をもって教えられたのが入涅槃、つまりお釈迦様がその80年のご生涯を終えられ、亡くなっていかれた、その姿でありました。長い間のご説法の旅の末、年老いて病に倒れられ、そして亡くなっていかれた。この私の身の事実を見よと。臨終のすがたがそのまま無言の説法であったのです。言い換えますと、お釈迦様の臨終のすがたに無言の教えを聞き取り、受け止められた仏弟子たちが、私たちはこのように聞き受け止めました。という表現が「見老病死、悟世非常」という言葉になっているのです。
私たちは、多くの大切な人の死に出あい、しかもそのことがなかなか受け止めきれず、いつしか日常生活に流されているのですが、そういう私たちに生きていることのあたり前でないことに目を向けさせ、いのちの根っ子に立ち返らせる、そういう教え、呼びかけがこのようなお経の言葉になっているのです。そして、そのことは「今、いのちがあなたを生きている」という呼びかけにも通じているのだと私は受け止めています。

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