ラジオ放送「東本願寺の時間」

尾畑 文正(三重県 泉稱寺)
第6話 今、いのちがあなたを生きている [2006.1.]音声を聞く

おはようございます。今回が私のラジオ放送の最終回です。最後に、2011年に親鸞聖人滅後750年ということで、親鸞聖人の恩徳に謝する大法要が開かれますが、そこで私たちはどんな親鸞聖人に出遇うのだろうか、ということを考えてみたいと思います。
結論から言えば、私は悲しみの聖人に出遇うのではないかと思います。
親鸞聖人の著された和讚、和讚とは、「やわらぎほめる」という言葉通りに、漢文ではなく仮名交じりの大和言葉で書かれた歌です。その和讚に「釈迦如来かくれましまして/2千余年になりたまう/正像の二時はおわりにき/如来の遺弟悲泣せよ」とあります。
この和讃は、仏教を明らかにしたお釈迦さまが入滅されて、もう2千年も経ってしまった。確かに、お釈迦さまの教えは、お経として、今の時代にまで残されてはいます。しかし、その教えを身を以て実践し、悟りを開くものは、もはや、誰一人としていない。文字通り、いまは、教えのみがあって、それを我が身に実践し証明する人もいない末法の時代です。だからこそ、仏弟子として、仏さまの教えに学び、生きようとするものは、その末法の事実に頭を垂れて悲しむことから歩みだすしかないではないか、仏弟子よ、自分自身を知りなさい、という教えだと思います。
親鸞聖人が「如来の遺弟悲泣せよ」と、仏弟子に叫んでおられる仏弟子の世界は、お経に説かれているように、五濁悪世と呼ばれる世界だと思います。五濁悪世とは、これは端的にいえば、人間が見失われている時代と社会をさす言葉です。だから、「如来の遺弟悲泣せよ」とは、この五濁悪世に、煩悩の身を以て、更に五濁悪世を重ねて生きている私たち自身の身の事実に立てということであります。私たちはともすれば、自分たちの世界を素晴らしい世界だと囃し立て、褒め称えようとします。しかし、本当にこの世界はもろ手を上げて称賛するに値する世界なんだろうか。
私たちは、多くの矛盾と、不正と、歪みを覆い隠して、素晴らしい世界だと自画自賛しているだけではないでしょうか。「如来の遺弟悲泣せよ」という親鸞聖人のことばからすれば、親鸞聖人はこの世界をもろ手を上げて称賛するべき世界ではないと認識していたことがよくわかります。
このような自分と自分の生きる世界を深く問い直す親鸞聖人の問題意識は、この和讃が作られてから、ほぼ750年後を生きている私たちをも厳しく問い直す言葉となって響きます。そのように考えて、この和讚に出てくる如来を親鸞聖人に置き換えて、今日の私たち自身を問う和讃として読めばこのようになると思います。「親鸞聖人かくれましまして/750年になりたまう/正像の二時はおわりにき/聖人の遺弟悲泣せよ」と表すことができます。親鸞聖人滅後750年を生きる私たちこそが、今問われているということになります。
ならば、一体全体、私たちは親鸞聖人から今何が問われているのでしょうか。
おそらく、それは、お釈迦さまの教えを通して、いかなるひとも救わないではおかないという阿弥陀仏の本願に目覚めて、その本願を生きた親鸞聖人にとっては、本願に背く私たちのあり方こそが問題となることです。
それは、総じて言えば、戦争と差別の只中に生きる私たちを、それでいいのかと、それが人間としてのいのちのあり方か、と問い悲しまれていることです。
お釈迦さまのことばに、仏様の教化にあずかる世界は、国と国が争うこともなく、人々は安らかに生活し、軍隊もなければ、武器さえもない、とあります。そういう世界が仏様の教化する世界です。文字通り、非戦平和の願いに生きる生活が表されているのでしょう。それが御遠忌テーマ「今、いのちがあなたを生きている」ということばの願う世界であると私は思います。

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