ラジオ放送「東本願寺の時間」

酒井 義一 (東京都 存明寺)
第5回 人は悪を外に見る [2010.11.]音声を聞く

 おはようございます。今朝は「人は悪を外に見る」というテーマでお話をさせていただきます。
 私が住職をしているお寺では、20年ほど前から子供会が開かれています。毎月一回、小学校1年生から中学校2年生までの子供たちが20人ほど、お寺に集まってきます。まずはじめに仏さまにごあいさつをします。本堂で、親鸞聖人の書かれた「正信偈」という言葉を、みんなで一緒に読んでいきます。そのあとは、毎月の企画を子供たちと一緒に行います。春にはお花見や工作。夏には大きなシャボン玉作りや、炭火をおこして焼きトウモロコシ作り、秋にはお散歩に出かけたり、冬には室内遊びや、映画上映会をしたり。ともかく子供たちと一緒に遊ぶこと、そして、子どもたち一人ひとりと出会うということを何よりも大切にしています。
 しかし、人間と人間が触れ合う訳ですから、仲がいい時ばかりではありません。時にはけんかをすることだってあります。

 ある日の子ども会での出来事です。小学6年生の男の子と4年生の女の子が大ゲンカをはじめました。激しく言い合う声が私のところにまで聞こえてきます。最後には男の子が女の子にボールをぶつけて、その女の子は泣き出してしまいました。
 私は二人を呼んで一緒にお寺の本堂に座りました。そして、何があったのかを聞いてみました。すると、当たり前のことですが、双方にはきちっとした言い分がありました。どちらの主張も、もっとものように聞こえます。
 言い分は食い違っていましたが、しかし共通する点もありました。それは、お互いが「悪いのは自分じゃない、相手こそが悪いのだ」と主張しているという、この一点でした。
 そんなとき、お寺の本堂に貼ってある、教えの言葉が飛び込んできました。そして、二人を前にしてその言葉を声に出して読んでみました。
 「相手が悪いと 指をさす その下の指は 自分に向いている」
もう一度読んでみます。
 「相手が悪いと 指をさす その下の指は 自分に向いている」
相手が悪いと指をさす。なんとその下の3本の指は、自分の方に向いているのです。なかなかうまいことをいうもんだなと感心しました。

 人間というものは、悪を自分の外に見ようとするものです。悪いのは相手だ、自分が悪いのではない、と。しかし、正しさを主張する私の中に、悪い点はまったくなかったと、いえるでしょうか。
 相手が悪者に見えてくると、人間はごく自然に自分は正しいという立場に立ってしまいます。しかし、実はそこに落とし穴が潜むのです。相手が悪い、自分は正しいと主張するあまり、お互いにあやまちを繰り返す「人間」であるという視点を、見失ってしまうからです。

 「相手が悪いと 指をさす その下の指は 自分に向いている」
 目を更に広げて考えてみたいと思います。国と国との戦争、地域と地域の紛争も相手を悪者にして、自分は正義・自分は正しいとなってはいないでしょうか。人と人との関係はどうでしょう。相手を悪者にして、自分は正しい・正義と見えてくると、人間は正義の名のもとに争いをしてしまう存在なのです。
 人は悪を外に見るもの。そういう根性が根強く私の中にあります。そうして私は正しいという思いを握りしめながら、周りが悪者に見えてきて、人は皆「独善」という闇におちていくのです。そして、結果的に自分を見失い、誰とも通じあえず、誰とも分かり合えなくなっていくのです。そのことこそが実はとても大きな問題なのではないでしょうか。

 私たちの中には、実にそのような見えない闇があります。そのことを教えられながら、気がつきながら生きていくことを、何よりも大切にしたいものです。
 その下の指は自分に向いている…。自分にも悪い点や至らない点があったことをいたむ心。そのいたむ心こそが、周りの人とつながっていく大切なこころなのですから。

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