ラジオ放送「東本願寺の時間」

木越 祐馨(石川県 光琳寺)
第四回 大谷本願寺の梵鐘鋳造音声を聞く

 おはようございます。前回は豊臣秀吉の命で、無念の思いで隠居した教如上人の姿を追ってみました。今朝は隠居した教如上人の動きを、画期となる出来事を中心にみていきましょう。文禄五年、西暦1596年、六月二十四日、教如上人は「大谷本願寺」と銘文を付した梵鐘を製作しました。39歳の時です。
 この梵鐘は大阪の難波別院に現存します。銘文に教如上人の名前はないものの、別院の由緒によれば教如上人によって鋳造されたと伝えられています。これによって隠居中の教如上人が梵鐘をもつ寺院を建立したことが推測されます。場所は大坂城の北、渡辺であったといいます。つまり、教如上人はみずから本願寺を再興すべく同地に一寺を建立したことになります。はっきりと梵鐘に「大谷本願寺」とあり、真宗大谷派の難波別院が所蔵していることから、この推測が事実とみられています。
 隠居から梵鐘鋳造までの教如上人の動きをみておきましょう。教如上人の活動は隠居の翌年から始まったようです。准如上人方は教如上人を、次の兄で西国に勢力をもつ興正寺に入寺していた顕尊と同じ地位、つまり准如上人の下位で処遇しようとしていました。これに教如上人は納得せず、准如上人と並ぶ地位を求めていたとみられます。そして各地の門徒と交渉を持ち、多くの支持を得ていきました。この動きは准如上人方に動揺を与え、すでに教如上人が准如上人と並ぶようになったとみなし、数ヵ条にわたって叱問したようです。教如上人はこれを無視し、文禄四年、西暦1595年には支持する門徒の求めに応じて、親鸞聖人等の画像をわたすようになりました。
 この動きを封じ込めるため准如上人方は、教如上人を支持しないよう誓約書をとっています。しかし豊臣秀吉の命による准如上人の相続のあり方に批判的な門徒は多く、本願寺一門や地方の有力寺院による門徒への圧力も混乱に拍車をかけたことでしょう。
 このような状況のなかで「大谷本願寺」の梵鐘ができあがりました。准如上人と並ぶためにも、みずからの「大谷本願寺」を建立する必要があったのです。さらに上人を支持する門徒の結集もはかられたことでしょう。しかしこの「大谷本願寺」について、あまり史料が残っていないことから、実態がよくわかっていません。先に述べたように、教如上人による一寺の建立が推測されているものの、それより大切なことは、梵鐘の鋳造が「大谷本願寺」の再興という決意のあらわれであったということです。
 梵鐘完成の翌年に、加賀北部、いまの石川県では、准如上人方が教如上人を支持しないよう門徒に大きな圧力を加えました。教如上人を支持することは、住職を准如上人に譲ると顕如上人が書いた譲状、これを承認した秀吉、さらにこの決定を了解した天皇の意志に背くものであると断言しています。また当時の誓約書の常套句ですが、今生では領主である前田利家、来世では阿弥陀如来と親鸞聖人の罰を受ける。だから支持すべきではないと迫っています。
 今回の准如上人方の圧力には、前田利家の政治力が加わっています。利家は秀吉政権の五大老の一人であり、門徒は従わざるをえませんでした。利家の関与は准如上人方の深刻さを示すものであり、秀吉政権の真剣さを物語るものといえます。
 秀吉政権下では准如上人と並ぶことは不可能に近く、准如上人のもとで弟の興正寺顕尊と並ぶことに、教如上人は甘んじなければなりませんでした。第一回でお話ししたように本願寺を継承して親鸞聖人の教えをみずからが伝えるという強い自覚と意志をもった上人にとって、到底受け入れることのできない状況でした。これを打開するための行動については、次回お話ししたいと思います。

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