ラジオ放送「東本願寺の時間」

本多 雅人(東京都 蓮光寺)
第一回 人間そのものが問われている現代音声を聞く

 「3.11」、東日本大震災とそれに伴う原発事故から3年の月日が経とうとしています。 「3・11」はさまざまな問題を私たちに投げかけました。3.11によって現代の闇が浮き彫りになったといえましょう。
 大地震と大津波によって、あらゆるものが移り変わっていく「生死無常」という現実をまざまざと見せつけられました。大地震、大津波の衝撃があまりにも大きかったのは、一瞬のうちにすべてを失ってしまったからです。一瞬のうちに愛する人が亡くなり、家が流され、故郷が壊滅し、思い出の品々が消えていってしまったことは、とても受け止めることはできません。受け止められない現実、しかし、そこに生きていかねばならないのもまた事実で、生きる内実は、苦悩に満ちていると痛感せざるを得ません。  
人間は、生きる場がなければ生きていけないし、愛する人との別離ほどつらいものはありません。ところが、とても厳しいことですが、この世のあらゆるものが移り変わっていくのです。変わらないでほしいと思ってもすべては移ろいゆくのです。そのことを今回の震災によって嫌というほど知らされました。
 知らされると同時に、“何を真のよりどころとして生きていくのか”という、現代を生きる私たちが避けては通れない問いを投げかけられたのではないでしょうか。まさに私たち自身、人間そのものが根底から問われたのではないでしょうか。
 私たちは、生まれた時から、自ら選ぶことのできない境遇に投げ出され、苦の現実に遭い、老い、病気をし、そしていのち終えていく、まさしく「生老病死」の身の事実を生きているのです。「生老病死」という言葉は、私たちの思い通りにならないのがいのちの厳粛な事実であることを表しています。そのいのちをどう生きれば本当に生きたと言えるのかという根源的問いをまったく忘れ去って、科学の進歩と経済発展があれば幸せになれると、わかったつもりになって歩んできたのではないでしょうか。
 経済発展の象徴が原子力発電所といってもいいでしょう。安全神話で固められた原発が地震によってもろくも崩壊しました。原発事故は収束するどころか、益々深刻さを増しています。ですから事故処理は緊急の課題ですが、単に対策に終わるのではなく、このような事故を招いた人間そのものを深く見つめることが何よりも大切に思います。なぜなら、原発問題が解決し、原発をゼロにしたとしても、人間そのものを根底から問い直すことがなかったら、私たちの生活は何も変わらないからです。原発にかぎらず、経済、教育、家族、あらゆる「問題」の根源は、問題そのものにあるのではなく、すべて人間にあるのです。
 巨大な経済システムのなかに人間が取りこまれ、あらゆることが画一化、マニュアル化された社会になってしまった現代において、私たちは自己を問わずに、社会の流れ、答えに無疑問的に合わせて生きてきたのではないでしょうか。社会の流れに自分を合わすことで、自分に真向かいになることができず、どこか不安や孤独、むなしさを感じる、そういう生きづらさが充満しています。人と人の関係、自然と人間との関係が分断され、関係性のなかで学ぶことがなくなってしまったのではないでしょうか。
 「わかったつもり」を仏教では、明るく無いと書いて「無明」といいます。無明性を自覚せずに、どこまでも傲慢に生きてきたのではないかと問いかけられています。人類史上、もっとも経済的に豊かな時代を生きていながら、人間の問題はむしろ深刻化していることに気づかされます。
 3.11を機縁に人間そのものを見つめ直すことがあらゆることに向かいあっていく根本的な視座となるのではないでしょうか。今回より6回にわたって、現代に生きる人間の問題を親鸞聖人の教えに尋ねながら語っていきたいと思います。

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