正信偈の教え-みんなの偈-

仏説無量寿経

【原文】
如 来 所 以 興 出 世
唯 説 弥 陀 本 願 海

【読み方】
如来にょらい、世に興出こうしゅつしたまうゆえは、
ただ弥陀みだ本願海ほんがんかいを説かんとなり。


 「如来、世に興出したまうゆえは、ただ弥陀本願海を説かんとなり」(如来にょらい所以しょい興出世こうしゅっせ 唯説ゆいせ弥陀みだ本願海ほんがんかい)と、親鸞聖人は詠われました。それは、前号に詳しく申しましたように、釈尊が、この世間にお出ましになられた目的は、ただただ、阿弥陀仏の海のように広大な大悲の本願のことをお説きになるためであった、ということでありました。
 親鸞聖人のこのお言葉は、『仏説無量寿経』すなわち『大無量寿経だいむりょうじゅきょう』によるものです。このお経のなかで、釈尊は、「如来、無蓋むがいの大悲をもって三界さんがい矜哀こうあいしたまう。世に出興しゅっこうしたまう所以ゆえは、道教を光闡こうせんして、群萌ぐんもうすくい恵むに真実の利をもってせんとおぼしてなり」(聖典8頁)と説いておられるのです。
 それは、「釈尊は、何ものにもおおわれることのない大悲によって、果てしない迷いの状態(三界)にある人びとを哀れんでおられるが、釈尊がこの世間に出られたわけは、教えを世に明らかにして、そのような人びとを救い、真実の利益を恵み与えたいと願われたからである」というほどの意味になります。
 このようにお説きになったうえで、釈尊は、法蔵ほうぞう菩薩が四十八の誓願せいがんおこされたこと、そしてそれらの誓願がすべて成就して、法蔵菩薩が阿弥陀仏に成られたことなどを説かれます。つまり、阿弥陀仏の本願のことを教えられるのです。先ほどの経文きょうもんに「真実の利」とありましたのは、阿弥陀仏の本願のことを釈尊がわれわれに教えてくださったということなのです。
 このように、『大無量寿経』というお経は、釈尊が世に出られた理由を明らかに説いてあるために、「出世しゅっせ本懐ほんがいの経」といわれます。釈尊が世に出られた本当のお気持ちを表わしてあるお経という意味です。
 「出世本懐の経」といわれているお経が、もう一つあります。それは『法華ほけきょう』(『妙法みょうほう蓮華経れんげきょう』)というお経です。
 このお経には、「一乗」ということが説かれているのです。それは、仏に成れる人と、仏に成れない人とがあるのだと、誤ってそのような理解にこだわる人びとが世の中にはいるだろうが、しかしそのような受け取り方は、仏教の真実ではないという教えです。誰もが仏に成るという、一つの乗り物、一つの教えしかないのだ、というのが『法華経』の教えなのです。
 すべての人が仏に成るといわれるけれども、それはなぜであるのか、そのことについては、『法華経』には必ずしも明確に説き明かされていないのです。仏に成る根拠を示すことは『法華経』の目的ではなかったのです。
 しかし『大無量寿経』には、仏に成るという言い方ではありませんが、すべての人びとが浄土に往生するのは、阿弥陀仏の本願によるのであると、明確に示されているのです。親鸞聖人はお若い時に、比叡山で『法華経』を深く学ばれたはずですが、阿弥陀仏の本願が説かれているために、『大無量寿経』を最も大切にしておられるのです。
 ところで、阿弥陀仏の本願のことを私に教えるために、釈尊がこの世間にお出ましになられたのだということは、私どもの常識からしますと、理屈に合わないことです。歴史的な見方からしましても、筋の通らない話ということになります。釈尊はたまたまお生まれになったのであり、のちにようやく仏に成って教えを説かれたと見るからです。
 釈尊がわざわざこの世間にお出ましになられたのは、ただ、阿弥陀仏の本願のことをお説きになるためだったのだと、親鸞聖人が「正信偈」に詠っておられるのは、常識や歴史的な見方ではなくて、それは心の奥深いところから湧き出てくる宗教心による見方なのです。聖人がお受け取りになられた信心による自覚の問題なのです。
 阿弥陀仏の本願という大悲に出遇われた親鸞聖人にしてみれば、世間の常識がどうであろうと、また歴史がどうであろうと、それはそれとして、釈尊は、親鸞聖人ご自身のために『大無量寿経』を説いてくださり、阿弥陀仏のことを教えてくださったのだと、そのようにしか、お受け取りになれなかったのではないでしょうか。「正信偈」のこの二句を拝読しますと、心から感激しておられる聖人のお気持ちが何となく伝わってくるような気がするのです。

大谷大学名誉教授・九州大谷短期大学名誉学長 古田 和弘

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