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正信偈の教え-みんなの偈-

煩悩と涅槃

【原文】
能 発 一 念 喜 愛 心
不 断 煩 悩 得 涅 槃

【読み方】
よく一念いちねん喜愛きあいの心をほっすれば、
煩悩ぼんのうだんぜずして涅槃ねはんを得るなり。


 私どもは、自我のはからいを捨てることが、なかなかできません。けれども、はからいを少し横に置くことによって、阿弥陀仏の本願に素直になれると教えられています。そして、仏の願いに素直になる信心によって、喜愛の心が起こされるのだと諭されています。
 さらに、喜愛の心が起こされることによって、煩悩をなくさないままで、煩悩の支配を離れた涅槃という境地にいたることができると詠われているのです。
 「煩悩」というのは、私どもの身や心を煩わせ、悩ませる心のはたらきのことです。しかもそれは、自分自身が引き起こしている心の作用なのです。私どもの心には、いつも一〇八種類の煩悩がはたらいていると言われていますが、その代表的な煩悩、最も深刻な煩悩を「三毒さんどく煩悩」と言います。それは、貪欲とんよく(欲望をいだくこと)と、瞋恚しんに(憎み怒ること)と、愚癡ぐち(道理に無知であること)の三つです。
 あらためて自分の心の中を静かにのぞいてみると、まさに教えられている通り、そのような煩悩がいつも心に付きまとっていて、絶えず自分を支配していることを認めざるを得ません。自分の利益のためになると思い込み、自分の思い通りにしようとしていること、それが実は煩悩であって、結局はそれが自分自身を苦しめ悩ませる原因になっていると、釈尊は教えられたのです。しかも、私どもは、自らが引き起こしている煩悩によって、自分自身が苦しんでいる、そのことにすら、なかなか気づけないでいるのです。まことに、道理に無知だといわなければなりません。
 私どもが身に受けているさまざまな苦悩から解き放たれるために、釈尊は、その原因である煩悩を取り除く道を教えられたのでした。そして、すべての煩悩が取り除かれた、心穏やかな状態を「涅槃」と教えられたのです。
 このように、「涅槃」は煩悩を滅した状態を意味するのでした。そしてさらに、完全に煩悩を滅した状態というのは、人の「死」であることから、「涅槃」は「死」と理解されるようにもなったのでした。人が亡くなることを「涅槃に入る」とか、「入滅」とか言われるようになったのです。
 ところが、やがて「涅槃」についての理解はさらに深められ、「滅」というような消極的な見方ではなく、「悟り」という積極的な意味に「涅槃」は理解されるようになったのです。煩悩が滅することを「涅槃」というならば、「煩悩を断ぜずして涅槃を得る」というのは、煩悩をなくさないままで、煩悩のなくなった状態になるということになりますから、矛盾した言葉になります。けれども「悟り」ということであれば、「悟り」は煩悩の有る無しをはるかに越えた境地ですから、煩悩を断ずるとか、断じないとかにかかわりなく、「悟り」としての「涅槃」に到達することがあるわけです。これが「煩悩を断ぜずして涅槃を得る」という教えの一般的な理解です。
 しかし、「悟り」ということであれば、悟れる人と、悟れない人とができてしまいます。悟る力のある人と、悟るほど力のない人との区別が出てくるわけです。
 「正信偈」に示されている親鸞聖人のお心からすれば、「涅槃」は、ある個人の「悟り」というようなことではないでしょう。釈尊が教えられた通り、私どもは五濁の世に生きなければなりませんが、その自分の身に届けられている信心を喜ぶことによって、その人の煩悩ばかりではなく、すべての人びとの煩悩を飛び越えた「涅槃」が、その人に実現するということになるのではないでしょうか。
 もう少し言葉を換えてみるならば、阿弥陀仏の本願によって往生すること、そのことが「涅槃」の意味であるということになるのです。煩悩を断ずることができなくても、いや、煩悩を断ずることのできない、愚かで情けない自分であるからこそ、「本願」ともいうべき「涅槃」、「往生」ともいうべき「涅槃」を、私どもは得させてもらうのであると、聖人は教えておられるように思うのです。

九州大谷短期大学長 古田和弘

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