正信偈の教え-みんなの偈-

難の中の難

【原文】
弥 陀 仏 本 願 念 仏  邪 見 憍 慢 悪 衆 生
信 楽 受 持 甚 以 難  難 中 之 難 無 過 斯

【読み方】
ぶつ本願念仏ほんがんねんぶつは、邪見憍慢じゃけんきょうまん悪衆生あくしゅじょう
信楽しんぎょう受持じゅじすること、はなはだもってがたし なんなかなん、これにぎたるはなし


 私たちは道理を見失っていると、釈尊は教えておられます。そして、そのために私たちは、いま現に悩み苦しんでいるのだと、教えておられます。
 私たちには、自分が道理に迷っているとか、いま悩み苦しんでいるとか、そのような実感は強くないかもしれません。しかし、道理に目覚めた人をブッダ(仏陀)といいますが、その仏陀であられる釈尊が、私たちのありさまを、そのように指摘しておられるのです。
 どうやら私たちは、道理とは関係のない、自分の目先のことに、自分の思いを信用してかかわっているに過ぎないのです。また、たとい自分は悩み苦しんでいると感じているとしても、それは、あくまでも道理に気づいていない私たちが感じていることであって、釈尊が指摘しておられる悩み苦しみと同じ質のものであるとは限らないのです。実は、本当に悩み苦しまなければならないこと、現に悩み苦しんでいるはずのこと、それを知らずに迷い続けているわけです。
 そのような自分の事実に深く目覚めて、迷いから離れることができればよいのですが、理屈ではそれがわかっていても、現実にはその事実から眼をそらせて暮らしています。それなのに、これでよいのだと思い込んでいます。あるいは、しかたがないのだと言いわけをしています。救い難い愚かさというよりほかはありません。
 このような私たちを哀れんで、釈尊は『仏説無量寿経ぶっせつむりょうじゅきょう』というお経を説いてくださったのです。このお経の題にある「仏」とは釈尊、「無量寿」とは、無量寿仏つまり阿弥陀仏のことですから、『仏説無量寿経』とは、釈尊が阿弥陀仏についてお説きになられたお経、ということになります。
 「阿弥陀仏の本願念仏」といわれていますが、『仏説無量寿経』によれば、阿弥陀仏は、愚かで救い難い私たちを何とかして救いたいと願っておられます。そのような私たちだからこそ、救わなければならないと願っておられるのです。この願いが「阿弥陀仏の本願」なのです。
 阿弥陀仏は、私たちを深刻な悩み苦しみから救いたいという願いから、私たちに「念仏」を施し与えておられます。私たちには「南無阿弥陀仏」が贈り届けられているわけです。
 ところが、私たちは、道理に背いた邪悪な思い(邪見じゃけん)から離れられていません。そして思い上がって(憍慢きょうまん)、阿弥陀仏が願ってくださっていることよりも、自分の思いの方を信用して大切にしています。まさに私たちは「邪見憍慢の悪衆生あくしゅじょう」なのです。
 悪衆生にとっては、阿弥陀仏の本願による念仏を「信楽しんぎょう受持じゅじする」ことは、甚だ困難なことであると、親鸞聖人は指摘しておられます。
 「信楽」は、信じて楽うことです。本願によって念仏が私たちに差し向けられていることを疑わずに素直に信ずること、そして喜んで念仏を楽い求めることです。また「受持」は、受けとめて保つことです。施されている念仏をしっかりといただき、日に日にいただき続けることです。
 邪見や憍慢にとりつかれている私たちにとって、本願の念仏を素直に信じて喜ぶことが甚だ困難であり、そればかりか、それは難の中の難であって、これに過ぎた困難、つまりこれ以上の困難はないと、聖人は教えておられるのです。
 そうすると、私たちには、念仏を信ずることは、まったく不可能だということになりますが、実はそうではないのです。そのために、この「依経段えきょうだん」の後に「依釈段えしゃくだん」が続きますが、そこには、このような私たちだけれども、むしろ、このような私たちだからこそ、私たちの自力によらない、阿弥陀仏の本願による他力の信心が、私たちに差し向けられているのだという、七高僧の教えを親鸞聖人は述べてゆかれるわけです。
 ただ、「難の中の難、これに過ぎたるはなし」という句は、『仏説無量寿経』の経文(『真宗聖典』87頁)によると思われますが、お経では、教えにはまれにしか遇えず、遇うことの困難さが説かれています。親鸞聖人は、あえて、経の趣旨とは少し違った文脈でこの句を用いておられるようです。

大谷大学名誉教授・九州大谷短期大学名誉学長 古田 和弘

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