正信偈の教え-みんなの偈-

凡夫の信心

【原文】
惑 染 凡 夫 信 心 発
証 知 生 死 即 涅 槃

【読み方】
惑染わくぜんぼん信心発しんじんほっすれば、
しょうそくはんなりとしょうせしむ。


 親鸞聖人は、曇鸞大どんらんだいの教えをほめたたえておられます。
 親鸞聖人によりますと、曇鸞大師は「ほういん誓願せいがんあらわす」(ほういん顕誓願けんせいがん)と述べられて、阿弥陀仏の浄土が開かれることになった原因も、そして、すでに開かれているという結果も、さらには、私たちが浄土に往生することになる原因も、また往生するという結果も、すべて阿弥陀仏の誓願によることであると教えておられるのです。
 そして、「おうげんこうりきる」(往還おうげんこう由他ゆたりき)といわれていますように、私たち凡夫が阿弥陀仏の浄土に往生する「往相おうそう」も、浄土に往生した上で、迷いのこの世間に対してはたらきかける「還相げんそう」も、どちらも、阿弥陀仏の本願力によって回向されている(差し向けられている)ことであって、私たちの自力によるのではなくて、他力によることであると教えておられるのです。
 それでは、本願による他力によって、私たちはどうなるのかということについて、曇鸞大師は、「正定しょうじょういんはただ信心しんじんなり」(正定しょうじょう因唯信心いんゆいしんじん)と教えられます。すなわち、私たちが、間違いなく浄土に往生して仏になることが確定するのは、ただただ他力を信じる「信心」によることであると教えておられます。もちろん、その「信心」は、自力の信心ではなくて、阿弥陀仏の本願によって回向されている、他力の信心なのです。
 その上で、「惑染の凡夫、信心発すれば」(惑染凡わくぜんぼん信心発しんじんほつ)といわれます。
 「惑染」の惑も染も煩悩の別名です。迷惑といわれますように、私たちは、真実を見失っているために、道理に迷い惑っていて、またそのために、心が純粋でなく汚染されているのです。
 そのような私たち「惑染の凡夫」にも「信心発すれば」と述べられております通り、信心が起こることがあるのです。ここで注意しておかなければならないことは、親鸞聖人が「信心を発する」(発信心)ではなくて、「信心が発する」(信心発)といっておられることです。「信心」は凡夫が起こすものではなくて、阿弥陀仏の大慈悲の本願力によって、凡夫の身の上に起こることなのです。
 そこで、私たち「惑染の凡夫」に「信心が起これば」どうなるのかということですが、それについて、曇鸞大師は「生死即涅槃なりと証知せしむ」(しょうしょうそくはん)と教えておられるわけです。
 「生死」というのは、自分の煩悩によって引き起こされる迷いのために、自分が苦悩している状態です。そして「涅槃」とは、逆に、その迷いが解消したことによって苦悩が滅した状態のことです。この二つのことが「即」という言葉で結びつけられているわけです。
 「即」は、「すなわち」と読みますが、「ただちに」とか「そのまま」という意味です。これは、仏典の中では少し注意して読まなければならない文字だと思います。
 「生死即涅槃」は、生死がそのまま涅槃である、ということです。言い換えると、「迷いの状態」がそのまま「迷いのない状態」ということになりますから、互いに矛盾し合う二つのことが、そのまま一つになっているのです。
 このような見方は大乗の経典にしばしば説かれている教えです。その場合「涅槃」は「悟り」という意味ですから、迷いのままに悟りが得られるということになります。これによく似た言葉が「正信偈」の別のところにあります。「煩悩を断ぜずして涅槃を得る」(断煩悩得だんぼんのうとくはん)という言葉です(『真宗聖典』204頁)。
 「涅槃」は、親鸞聖人のお言葉使いからすれば、「悟り」という意味よりも、「往生」という程の意味に理解されると思います。そうすると、「生死即涅槃」は、「迷いの状態そのままで往生する」ということになります。
 次の「証知」の「証」は、「あきらかにする」「はっきりさせる」という意味ですから、「正信偈」には、曇鸞大師の教えとして、「迷い続けている惑染の凡夫に、本願による信心が起こるならば、迷いのままに往生させていただくことが、はっきりと思い知らされる」と示されているのです。

大谷大学名誉教授・九州大谷短期大学名誉学長 古田 和弘

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