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正信偈の教え-みんなの偈-

聖道門と浄土門

【原文】
道 綽 決 聖 道 難 証
唯 明 浄 土 可 通 入

【読み方】
道綽どうしゃく聖道しょうどうの証しがたきことを決して、
ただじょうの通入すべきことを明かす。


 道綽禅どうしゃくぜんのご幼少のころ、インドから『大集月蔵経だいしゅうがつぞうきょう』(『大集経月蔵分だいじっきょうがつぞうぶん』ともいう)というお経が伝わって来ました。このお経には、「末法まっぽうの到来」ということが説かれています。仏教の教えは、釈尊が亡くなられた後、時代がへだたるにともなって、世に正しく伝わらなくなり、やがて仏法は衰滅する時が来ると説かれているのです。
 このお経によりますと、仏教は、正法しょうぼう像法ぞうぼう・末法という三つの時期を経て、やがて滅尽してしまうというのです。
 釈尊が亡くなられた後、はじめの五百年は「正法」の時代とされます。この時までは、教えが正しく伝わり、その教えによって正しい修行ができるので、正しいさとりが得られるとされます。
 この後「像法」となり、それが千年続きます。この時には、かたちばかりの教えが伝わり、その教えによって像ばかりの修行はできますが、教えも修行も像ばかりですから、証は得られない時代です。
 そしてその後の一万年が「末法」です。かろうじて教えは伝わっているけれども、行も証もともなわない時代です。
 このような末法の世では、教えの伝わり方も不十分であり、修行もできなくなっているわけですから、自分の信念や努力を頼りにして、厳しい修行を重ねても覚りに近づくことは不可能であるとされるのです。
 道綽禅師がおられた当時、すでに末法の時代に入っていると受けとめられていました。道綽禅師がお生まれになったのは、末法に入って十一年目のことであったとされていたのです。
 しかも、前回述べました通り、道綽禅師は、厳しい仏教弾圧の事件を身をもって経験されましたから、末法の世を生きて、そこで仏法を学び、仏教を守らなければならないという自覚が、私たちが想像する以上に強かったことでしょう。
 末法という危機意識のほかに、『法華ほけきょう』や『仏説ぶっせつ阿弥陀あみだきょう』には、すでに「じょくあく」(『真宗聖典』133頁)ということが説かれていましたから、その自覚も高まっていたことと思われます。
 「五濁」というのは、この連載の第18回目に説明したことですが、末の世において、人間が直面しなければならない五種類の濁り、汚れた状態を言います。それは、劫濁こうじょく見濁けんじょく煩悩濁ぼんのうじょく衆生濁しゅじょうじょく命濁みょうじょくの五つです。
 「劫濁」の「劫」は、「時代」という意味ですから、それは、「時代の汚れ」ということになります。疫病や飢饉、動乱や戦争が続発するなど、時代そのものが汚れる状態です。
 「見濁」の「見」は、「見解」ということで、人びとの考え方や思想です。したがって、邪悪で汚れた考え方や思想が常識となってはびこる状態です。
 「煩悩濁」は、煩悩による汚れということで、欲望や憎しみなど、煩悩によって起こされる悪徳が横行する状態です。
 「衆生濁」は、衆生の汚れということで、人びとのあり方そのものが汚れることです。心身ともに人間の質が低下する状態です。
 「命濁」は、命の汚れということで、自他の生命が軽んじられる状態です。また生きることの意義が見失われ、生きていることのありがたさが実感できなくなり、人びとの生涯が充実しない虚しいものになってしまうことです。
 さて、このような末法の時、しかも五濁の世にあっては、自力によって厳しい修行を重ね、覚りに近づこうとする聖道門の教えは、事実上、不可能な教えであるというのが道綽禅師の指摘なのです。
 悪時・悪世に生きるぼんであればこそ、すべての人を浄土に迎えたいと願われるのが阿弥陀仏の本願です。そしてこの本願の力によって私たちに与えられているのが「南無阿弥陀仏」という念仏です。自力を捨てて阿弥陀仏の本願に従うという他力の念仏の教え、それが浄土門です。
 末法・五濁の世では、この浄土門の教えしか残されていないと、道綽禅師は教えておられるのです。そして、その教えを親鸞聖人は大切にして受け継がれ、念仏をありがたく受け取っておられるのです。

九州大谷短期大学長 古田和弘

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