正信偈の教え-みんなの偈-

誓願に遇うということ

【原文】
一 生 造 悪 値 弘 誓
至 安 養 界 証 妙 果

【読み方】
一生いっしょう悪を造れども、ぜいもうあいぬれば、
安養界あんにょうかいに至りてみょうを証せしむと、いえり。


 道綽禅どうしゃくぜんは、仏教を学ぶ学び方に二つあることを教えられました。自力の聖道門しょうどうもんと他力の浄土門です。
 自分の能力を信じて修行に励み、それによって仏のさとりに近づこうとするのが聖道門です。しかしこれは、釈尊ご在世の時から遠くへだたり、しかも、次第に資質が衰えてきているぼんにとっては、まさに難行なんぎょうであるとして、道綽禅師はこれを退けられたのでした。
 そして、末の世の劣悪な凡夫にとっては、一人ももらすことなく、すべてをすくい取りたいと願われる阿弥陀仏の本願の力の他に、何も頼るものはないことを明らかにされたのです。
 さまざまな善に励んで、さとりに近づこうとするのは、自分というものを知らない人のなすことであって、完全な徳がそなわっている「南無阿弥陀仏」をいただいて、もっぱら称えることが、自分に正直な、そして末法まっぽうの世にふさわしい唯一の道であるとされたのです。
 そのような教えについて、「一生造悪いっしょうぞうあく値弘ちぐぜい 安養界証妙あんにょうかいしょうみょう」(一生悪を造れども、弘誓に値いぬれば、安養界に至りて妙果を証せしむ)と道綽禅師が言っておられるとして、親鸞聖人は、道綽禅師の教えをしめくくっておられるのです。
 たとえ、一生の間を通じて、さまざまな悪を作る者であっても、阿弥陀仏の広大な誓願に遇うことになれば、阿弥陀仏の極楽浄土に往生して、そこで仏のさとりを得るのであることを教えられた、ということです。
 「弘誓」は阿弥陀仏の誓願です。阿弥陀仏は、仏になられる前、法蔵ほうぞうという名の菩薩であられましたが、法蔵菩薩は、心から浄土に生まれることを求める人びとを、すべて、ご自分の浄土に迎え入れようと願われました。そして、その願いが成就しないのであれば、ご自分は仏にはならないという誓いを立てられたのでした。そして、法蔵菩薩は阿弥陀仏になられたのでした。
 「悪を造る」と言われていますが、その「悪」は、もちろん、法律上の罪を犯したり、世の道徳に反する行為をも言うのですが、それだけではありません。何よりも、釈尊が明らかにされた真実、人が生きる普遍の道理、それに背くのを「悪」というのです。
 「安養界に至る」と言われる「安養界」は、心が安らかとなり、身が養われる世界ということで、阿弥陀仏の極楽浄土のことです。一生の間、悪をなし続ける者も、浄土に至る、つまり往生する、と教えられているわけです。
 「妙果」とは、ことにすぐれた結果ということで、「仏のさとり」を意味します。したがって、一生の間、悪をなすものも、阿弥陀仏の誓願に遇うことになれば、阿弥陀仏の極楽浄土に往生して、そこで、仏になる、ということです。
 ところで、一生、悪をなしてきた者が、どうして、浄土に往生し、そして仏になるのか、ということですが、それは、「弘誓に値いぬれば」ということによるのです。道理に逆らい、真実を疑う者が、往生して仏になれるのは、それは、それが阿弥陀仏の願っておられることであり、誓っておられることだからなのです。それ以外の理由ではないのです。
 道綽禅師は『安楽集あんらくしゅう』という著作を残しておられますが、その中に述べられている一つの喩えが、親鸞聖人の『教行信証きょうぎょうしんしょう』に引用されています(『真宗聖典』171頁)。
 それによりますと、ひどい悪臭を放つらんという樹が茂る林があって、その林の地中に、一株の芳ばしい香りを放つ栴檀せんだんの樹の根があり、栴檀が芽を出すまでは、耐え難いほどの悪臭が充満しているけれども、栴檀が芽を出し始めると、たちどころに、その伊蘭樹の林が、栴檀の芳ばしい香気に包まれた林に変わってしまう、というのです。
 伊蘭樹の林は私たちの生涯です。栴檀の芽は、阿弥陀仏の誓願を歓び、信ずる心を喩えたものです。その芽が出始めると、私たちの生涯は、そのまま誓願のはたらく生涯となるのです。
 悪をなす者が往生して仏になるということは、誓願によることであり、「誓願不可思議」と言われます通り、それは私たちの知性や論理でははかりきれない出来事なのです。

大谷大学名誉教授・九州大谷短期大学名誉学長 古田 和弘

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