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正信偈の教え-みんなの偈-

光明と名号

【原文】
矜 哀 定 散 与 逆 悪
光 明 名 号 顕 因 縁

【読み方】
定散じょうさん逆悪ぎゃくあくとを矜哀こうあいして、
光明名号こうみょうみょうごう因縁いんねんあらわす。


 まず、「矜哀定散与逆悪こうあいじょうさんよぎゃくあく」(定散と逆悪とを矜哀して)と述べてあります。善導大師ぜんどうだいしは、定善じょうぜん散善さんぜんの人びと、そして五逆ごぎゃく十悪じゅうあく凡夫ぼんぶを哀れんでおられるのでありました。それは、前回、少し詳しく見ていただいた通りです。
 「定善」にしろ、「散善」にしろ、これらは自力によることです。自力に頼るということは、自分を見誤ると同時に、阿弥陀仏の願いに背いていることに気づいていないことになります。それを、善導大師は悲しまれ、哀れんでおられるのです。
 また、「五逆」とか「十悪」とか、重い罪を犯すという、そのような悲しい生き方をせざるを得ない人びとを、善導大師は、痛ましく、哀れんでおられるのです。
 善導大師が哀れみをかけておられるのは、他の誰かのことではなくて、実は、今の私たちのことなのです。常に自力に迷い、また縁があればどのような罪悪をも犯す私たちのことです。親鸞聖人も、ご自身のことを、そのように、危うい、悲しい凡夫であると見ておられたのではないでしょうか。
 「光明名号顕因縁こうみょうみょうごうけんいんねん」(光明名号、因縁を顕す)とありますが、その「光明」は阿弥陀仏の智慧ちえのはたらきを意味します。光明は、暗闇を破ります。自力に迷い、道理について無知・無自覚である私たちの心の暗闇は仏の智慧の光によって破られるのです。
 しかし、仏の智慧の光明が、どこからか射し込んで来るというのではないでしょう。それは、阿弥陀仏の本願が、この私に差し向けられていることに私が気づかされたとき、つまり、私は、深い願いに包まれて生きていることに気づかされたときに、私は私の心の誤りを思い知らされ、道理に目覚めさせられるのです。それが、無知の暗闇が破られるという、本願の光明のはたらきなのです。
 「名号」とは「南無阿弥陀仏」です。これも、私のために起こされている阿弥陀仏の願いによって私に届けられているものです。「南無阿弥陀仏」は、「阿弥陀仏に帰命きみょうする」ということです。すなわち、「阿弥陀仏を心から敬います」ということなのです。
 しかし、それを平たく言い換えるならば、「阿弥陀仏におまかせいたします」という意味になると思います。私は、どう考えても、自力では浄土に往生する原因は作れないのです。そんなことはわかりきっていることですから、阿弥陀仏は、「余計なことはしなくてよろしい。私にまかせなさい」と呼びかけておられるのです。その呼びかけに従って、「おまかせいたします」というのが、「南無阿弥陀仏」なのではないでしょうか。
 次に「因縁」ですが、「因」は「原因」です。「縁」は、原因となるものに直接かかわる「条件」です。つまり、「原因」と、それをとりまく「条件」とを「因縁」というのです。「原因」と「条件」の組み合わせによって、一つの「結果」が生ずることを「因縁」というのです。
 さて、「光明名号顕因縁」(光明名号、因縁を顕す)とあります。順序は逆ですが、善導大師が顕らかにされたのは、「名号」が「因」(原因)であり、「光明」が「縁」(条件)となっているということです。
 本願によって私たちに与えられている「名号」が、「信心」の原因となります。その「名号」つまり「南無阿弥陀仏」が、私に与えられていることに気づかせていただく条件となるのが、本願による智慧の「光明」であると、善導大師は教えておられるわけです。
 「信心しんじん」というのは、私が私の思いによって起こすものではなくて、阿弥陀仏の願いが原因で私に起こるものであり、その願いが私に向けられていることに気づかされることが「信心」の条件となっている、ということなのです。
 阿弥陀仏が私たち一人一人に願っておられる、その願いに素直に従う心、それが「信心」でありますが、今こそ、その「信心」が私たちに不可欠であるとして、善導大師は、その「信心」の意味を顕らかにしてくださったのです。

九州大谷短期大学長 古田 和弘

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