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正信偈の教え-みんなの偈-

疑いの心

【原文】
還 来 生 死 輪 転 家
決 以 疑 情 為 所 止

【読み方】
生死輪転しょうじりんでんの家に還来かえることは、
けっするに疑情ぎじょうをもって所止しょしとす。


 親鸞聖人は、法然上人のお言葉に基づいて、その教えを讃えておられます。法然上人は、私たちの人生の重大な誤りは、何によって起こるかを教えておられるのです。
 「生死しょうじ」は、生きることと死ぬこと、という意味ではありません。仏教用語の「生死」は、「迷っている状態」という意味です。人は、日ごろ、目先の出来事に気を取られて、かけがえのない人生の最も大切なことを見失っています。つまり、真実を見失っているのです。真実を見失ったまま生きているということは、迷っているということなのです。しかも、迷っていることにも気づかずに、迷ったまま生きていますから、さらに次々と迷いを重ねるのです。幾重にも重なる深い迷いの中を転がり回ることになりますが、これを「正信偈」では「生死輪転」と言っておられるのです。
 まるで、人が故郷の家を懐かしむかのように、私たちは、「生死」(迷いの状態)が自分の帰るべき所であるかのように錯覚して、すぐに迷いに立ち戻ってしまうのです。「還来」は、「かえきたる」と読みます。もとの所に戻ることです。この二文字を親鸞聖人は「かえる」と読んでおられるのです。
 「生死に輪転する」というのは、迷いの状態にあるということですから、真実を見失い、道理に従っていないのです。道理に従わず、道理に逆らっていますから、それが、悩み苦しみの原因になるのです。悩み苦しみからの本当の解放を教えるのが仏教なのですが、私たちは、目の前の快適さに気を奪われて、愚かにも「生死」を頼りにしてしまうのです。このため、表面的な、形ばかりの安楽にれて、結果として苦悩に苦悩を重ねることになるのです。
 どうして、生死に輪転して苦悩を重ねることになるのか、それについて、親鸞聖人は、それは、「疑情ぎじょう」、つまり「疑う心」にとどまっているからだと教えておられます。つまり、人が苦悩を背負うのは、よく修行に励んだかどうかの問題ではないのです。人の資質や能力の問題では決してないのです。その人の生い立ちや実績の問題でもないのです。人が「生死」から離れることができず、悩みに悩みを重ねなければならないのは、仏の教えを疑うからだと教えておられるのです。
 釈尊は、私たちのために『仏説無量寿経ぶっせつむりょうじゅきょう』をお説きになって、阿弥陀仏が、苦悩する人びとをすべて本当の安楽に導きたいと願っておられるのだから、その阿弥陀仏の本願にお任せしなさいと、教えておられます。ところが、私たちは、その教えを疑うのです。
 それでは、どうして、疑う心が生ずるのでしょうか。それは、教えに触れるに先立って、自分が心にいだいている思いを重視しているからです。仏の教えよりも、自分の考えを尊重しているからです。自分が思っていることと事実とは、まったく関係はないはずなのですが、自分はそれなりにわかっていると思っていますから、自分を信用するのです。実は、愚かであるのに、愚かだとは思っていないのです。それほどまでに凡夫は愚かなのです。
 自分の考えを無条件に信用して、それを確保したままで教えに接しますと、教えを素直に受け取れなくなったり、また、自分の考えと、教えとの間に食い違いが起こったりします。食い違いが起こった時には、自分の方を信用しますから、教えは信用できなくなるのです。それが「疑い」なのです。「信」の反対語が「疑」なのです。
 法然上人は、『選択本願念仏集せんじゃくほんがんねんぶつしゅう』に、「まさに知るべし。生死の家には疑いをもっ所止しょしし、涅槃ねはんしろにはしんを以て能入のうにゅうと為す」と述べておられます。このお言葉の前半の「生死の家には疑いを以て所止と為し」という部分を、親鸞聖人は、今回の二行にして述べておられるわけです。そして、後半の部分をこの次の二行で説明しておられるのです。
 ただ、法然上人が「当に知るべし」(このことは知っておくべきだ)と言っておられますところを、親鸞聖人は「決するに」(間違いないことだ)と言っておられます。師の教えを大切に受け取られたお気持ちが伝わるように思われるのです。

九州大谷短期大学前学長 古田 和弘

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