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な行

内証(ないしょ)

弟子 「師匠、このように修行を続ければ、私でも覚れるのでしょうか」  「ナイショじゃ」 弟子 「ナイショだなんて隠さないで、ぜひ教えてください」  「それは内証なのじゃ」 弟子「内証って…」
修行をしている自分に不安をもつお弟子さんは、自分の修行の確かさを先生に証明してもらおうとしているようです。
数学などの公式は、誰が計算しても間違いがないことによって証明されます。つまり客観性が証明の大事な点です。
ところで、私たちは「生きることの本当の確かさ」についても、つい客観性を求めてしまいます。しかし、生きることに関しては、「客観性」と「確かさ」は何の関係もありません。ほとんどの人が「そうだ」と言っても嘘は嘘だし、本当のことは、かえって誰も語らないということがあります。
「生きることの本当の確かさ」は、私が「確かだ、本当だ」と頷(うなず)くことです。しかし「本当だ」と頷いている「私」を立脚地にする限り、「私の中」をぐるぐる廻るだけでしょう。それでも私が「確かだ、本当だ」と頷くことに存在を賭けて向き合う、そのことしか証しへの道はありません。
実は、そのような「私の求め」を打ち破って、「私こそ最も不確かな存在」であることを告げ知らせてくるものが、本当の確かさです。それは客観的な証明をまったく必要としないだけでなく、むしろ客観的な証明を拒否する「内証」でこそあるのです。

埴山和成 はにやま かずなり・大谷専修学院指導補
月刊『同朋』2002年9月号より

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