6.仏法聞き難し

松林 了(岡崎教区)

―三帰依文―

人身受け難し、いますでに受く。仏法聞き難し、いますでに聞く。この身今生において度せずんば、さらにいずれの生においてかこの身を度せん。大衆もろともに、至心に三宝に帰依し奉るべし。
 自ら仏に帰依したてまつる。まさに願わくは衆生とともに、大道を体解して、無上意を発さん。
 自ら法に帰依したてまつる。まさに願わくは衆生とともに、深く経蔵に入りて、智慧海のごとくならん。
 自ら僧に帰依したてまつる。まさに願わくは衆生とともに、大衆を統理して、一切無碍ならん。
無上甚深微妙の法は、百千万劫にも遭遇うこと難し。我いま見聞し受持することを得たり。願わくは如来の真実義を解したてまつらん。

【『真宗聖典』(東本願寺出版)巻頭】

【うなずけない心】

 三帰依文に「仏法聞き難し」とあります。世間では、寺とか仏教というだけで、堅苦しい儀式や、難しい漢文のお経のイメージがあって、寺で仏法の話を聞こうと一歩踏み出すことにはかなり高いハードルがあるようです。
 日曜学校など、子どものうちから寺に親しんでもらうことはとても大事なことだと思いますし、近年では本堂でコンサートや落語会などを催して、多くの人に寺に足を運んでもらう努力もなされているようです。劇作家の井上ひさし氏の基本姿勢は、「難しいことを易しく、易しいことを深く、深いことを面白く」であったとお聞きしました。これは寺に身を置くものにおいても、とても大事なことだと思います。
  しかし、「仏法聞き難し」ということは、教えや言葉が難しいということだけをいうのではありません。いくら易しく説かれても、私たちの方にその教えにうなずけない心があり、そのことをこそ「仏法聞き難し」といっているのでしょう。

【自我意識で聞く限り】

  「聞く」というのは「耳で聞く」「頭で理解する」という意味合いがありますが、仏法を聞くことは、聞いて意味を理解するだけではありません。親のいうことを聞く、先生のいうことを聞くといったときの「聞く」は、聞いたことを自分の生活とするということです。「けっこうなお話を有難うございました」といいながら、その人の生き方に何も反映されなければ、聞いたことになりません。「仏法聞き難し」とは、そういう意味での「聞き難し」なのです。
  念仏は「易行」です。ただ口に「ナムアミダブツ」と申すだけの易しい行です。しかし、そんなに易しい行ならば誰もが念仏を申そうということになるかというと、そうはならないのです。私たちは難しいことは嫌いで、易しいことの方が好きなくせに、そんな易しいことではとても助かることはできないだろうと、易しい行では信じられない心があるのです。「易行難信」です。
 その易行に対して、厳しい修行や学問を積まなければならないのが難行です。もともと、法然上人がお念仏の教えを広められる前は、仏教といえばすべて難行であったのです。私たちは厳しく難しいことは嫌いなくせに、それだけ厳しい行に耐えればそこに何かを得られるに違いないと、信じられる。身近なことでいえば、スポーツや受験勉強で成果を得るにも、それなりの努力・忍耐が求められます。だから、仏教においても、実際に行じるかどうかは別として、難行による成果を信じられる。「難行易信」です。
  『大無量寿経』に「易往而無人(往き易くして人なし)」という言葉があります。浄土への道は往き易いというのだから人がいっぱいなのかというと、人がいないというのです。「而」という接続の言葉は「だけれども」という逆接と、「そうして」という順接の両方の意味を持っています。ふつうならば、「往き易いけれども、人がいない」と読みますが、易行難信ということからいうと、「往き易くて、人がいない」となります。つまり、こんなに易いことでどうして助かろうかという自力にとらわれる心により、その道を往く人がいないのです。
  ですから、念仏往生の教えがいくら分かり易く丁寧に説かれても、自我意識で聞く限り「聞き難し」です。一度握りしめた自我意識は手放せません。歳を重ねれば重ねるほど、私はこれで生きてきたのだからと、手放すことが難しくなるでしょう。

【自我意識の問題性を聞く】

 私の自我意識に合う話がいい話だとして聞いている限り、聞いても聞かなくてもいっしょということでしょう。閉じていた私の心が開かれるということがなく、私の生き方が何も変わらない。聞法は、自我意識で聞くのでなく、自我意識の問題性を聞くことが大事です。
  念仏の教えを聞いて、自分の力では何ともならないいのちを生きていながら自力にとらわれていることに気づかされる。かつて、金子大榮先生が、「念仏は自我崩壊の音である」とおっしゃったそうです。とんでもない思い違いをしていた、「間違っておったナ-」と、自我へのとらわれに気づかされた驚きを表現されたのでしょう。

【すでに出遇えている喜び】

 三帰依文は、「仏法聞き難し」に続いて「いますでに聞く」とあり、それほどに聞き難い仏法にすでに出遇えている喜びが表されています。本願を信じ念仏申せという教えを聞くことができない悲歎と、そんな私がすでにお念仏に出遇えているという讃嘆、その二つが同じ深さで表されています。
 お念仏に出遇えなかったら、私は自我意識に縛られ、善し悪しとか、損だ得だということに振り回されたまま、何の疑問も持たずに死んでいくしかなかった。その私が、はからずも、いますでに仏法を聞く身にさせていただいている。「いますでに」という言葉の中に、遇い難き仏法に遇い得ている喜びが伝わってきます。

法話ブックの一覧に戻る PDF 印刷用PDFはこちら