9.お寺で一緒に迷いませんか?

谷 大輔(京都教区)

お寺とはどういう場所なのか

 「お寺にお参りしませんか」。寺に住み、寺の運営に関わる人なら、ご縁のある人に一度はこういった言葉をかけたことがあると思います。私もお寺の住職として幾度となく、こういう声をかけてきました。

 あるとき私は考えました。「お寺にお参りしませんか?」と他者に声をかけた者は、「それではお寺とはどういう場所なのですか?」という問いかけの前に身を置くことになるのだ、と。それは直接言葉になって返ってくることもあるし、無言の問いということもあります。寺に関わるかぎり、寺とはどういう場所なのかということをモヤモヤと問い続けざるを得ないのでしょう。

 そういった答えの出ない問いを悶々と反芻しているなかで、その問いに呼応する言葉に出遇いました。池田勇諦先生の、「お寺は聞法の道場ですから、まず迷っていない者を迷わせる場です」(『浄土真宗入門』東本願寺出版)というお言葉です。

  「お寺は聞法の道場」、つまり寺は本願念仏の教えを聴聞する場所だから、「迷っていない者を迷わせる場」なのだと言われるのですね。言い換えれば、仏法を聴聞すると「迷っていない者を迷わせる」ことになるのだということです。

迷っていないことの問題

 私たちの感覚では、寺に参って仏法を聴聞すれば、むしろ迷わなくなると考えます。しかし、よく考えれば、私たちは、「自分は迷っている」と本当に思っているでしょうか?迷いとは何か知っているでしょうか?むしろ、私たちの日常の心は迷いなどなく、色々なことが分かっているのです。

 私たちの日常の心で何が分かっているかというと、こうなれば幸せなのだ、こうなれば不幸なのだということです。健康で、長生きができて、家族円満で、それなりに友だちがいて、やりがいのある仕事ができて、そこそこお金があり、社会的な高位は求めないけれどそこそこ世の中から評価されること。これが幸せであり、そうでないことが不幸せ。分かりきったことですね。

 しかし私たちは日常の心で幸・不幸が分かっているからこそ、苦しむのではないですか?分かってしまっている幸・不幸の価値観のようなものが自分を傷付け、他人を傷付けているのではないですか?

私の中にある幸・不幸をはかっている価値観

 数年前、肺癌で亡くなった46歳の男性の葬式をしました。亡くなる1年前に癌が見つかり、仕事を退職されました。回復する可能性が出てきて、人と関わることが好きだったその人は、それなら本当にやりたい仕事をしたいと、たこ焼き屋をやろうと思われたんです。たこ焼き屋の専門学校というのがあって、たこ焼きの作り方や、店の運営の方法、機材まで紹介してくれます。ただ、そこに入るのにそれなりのお金がかかります。その方は、借金してその学校に入り、卒業して、いざたこ焼き屋をオープンしようとした矢先に、癌が再発し亡くなりました。

 その方は、癌が見つかる前に離婚されていて、20歳になる長男との2人暮らしでした。優しい人柄であったので、枕経・仮通夜を通して悔やみの弔問客が絶えず、お勤めを始めることができないほどでした。弔問の方々は喪主である長男に対して、「すばらしい人やったのに、かわいそうやったな」という言葉を繰り返していました。

 葬儀が終わり、最後に20歳の喪主が挨拶しました。彼はこういいました。「一昨日から父に『かわいそうだった』と言われる方が多くおられました。世間からみれば父は不幸だったかもしれません。しかし私が出会ってきた父の人生は輝いていました。かわいそうと言われるたびに、父の人生が否定されるように思えます。これからは父をかわいそうと言わないでください」と。

 私はドキッとしました。私の中にある幸・不幸をはかっている価値観が問われたのです。私たちは分かってしまっている幸・不幸の解答で人をはかり、可愛そうな人だと侮蔑します。そして自分をはかり、病気になったり、家族が不和になったり、お金がなくなった自分というものを受け入れられないのです。自分自身を見捨ててしまうのですね。

幸・不幸の価値観を引っくり返してくださる「非常の言」

 曇鸞大師は「非常の言は常人の耳に入らず」(『浄土論註』巻下/『真宗聖典』(東本願寺出版)282頁)と言われます。仏の教えとは「非常の言」、つまり私たちの日常の心、日常の感覚を超えた言葉であります。そして「非常の言」である仏の教えは、私たちの日常の中で当たり前にしている心では聞くことができません。むしろ、私たちの日常の心をひっくり返してくださいます。その「非常の言」である仏の教えを聞くということは、我々が日常生活の中で分かってしまっている幸・不幸の価値観を引っくり返してくださると言われるのです。

 私たちは日常生活を過ごす中で、しんどかったり、生き難かったり、苦しんだり悩んだりします。私たちの日常の心では、その原因を自分の外側に探そうとします。自分の幸・不幸の価値観で不幸な状態が自分を苦しめていると思うのです。

 仏の教えは、「あなたが分かったことにしている幸・不幸の価値観は本当なんですか」と価値観そのものを問い直してくださいます。幸・不幸とは何かが分かってしまっている自分を迷わせてくださるのです。

 お寺へのお参りを誘うとき、「今、あなたが迷っていないのならば、私もそうですから、一緒に迷うためにお寺に来て仏法を聴聞しませんか?」と声をかけてみてはどうでしょう?

法話ブックの一覧に戻る PDF 印刷用PDFはこちら