宗祖としての親鸞聖人に遇う

生まれた苦しみ

(安藤 義浩 教学研究所助手)

‘look on the bright side of things' という英熟語がある。「物事の明るい面を見る、物事を楽観する」(研究社・新英和中辞典)という意味である。英英辞典では ‘to be cheerful or positive about a bad situation, for example by thinking only of the advantages and not the disadvantages'(オックスフォード現代英英辞典)と説明されている。「不都合なことは考えず、好都合なことのみを考えて、苦境に対して陽気で積極的であること」と訳せよう。これは「元気を出すから元気になれる」という考え方であり、苦しいときの心理学的な対処法といえるだろう。
しかし…、しんどいのである。苦しいときに明るい面などなかなか見られないのが現実である。たとえ明るく振る舞えたとしても、ふと息を抜いた瞬間、そんな明るさは吹っ飛んでしまうのではなかろうか。
「不都合なことは考えず、好都合なことのみを考え」る姿勢を問題にするのが仏教である。好都合・不都合を考えること自体が、自分の都合(自我執着)であり、それが苦境を招くと教える。だから、仏教の立場では、苦境において好都合なことのみを考えても、陽気で積極的になれないばかりか、かえって苦境を深めるのである。
もちろん、苦しみのどん底にあって、さらに苦しめというわけではない。近代的自我で感情をコントロールできるという思いが、人間の奢りではないかと問われているのである。無始已来のさまざまなご縁によって、一瞬一瞬この私があり得ているという「いのち」の事実に目覚めよと教えられているのである。
仏教は、生まれたそのこと自体を苦しみとする。自我で苦しむために生まれ、死すべき縁に出遇うと死ななければならない。苦しい、楽しいといった感情と全く次元が違う。「一切皆苦」であり、「地獄一定」である。

現前一念における心の起滅亦た自在なるものにあらず。

清沢満之は、「いのち」の事実に出遇い、近代的自我の限界(無効)を「絶対他力の大道」で表白している。何事も自在にならない真実に対し、頭が下がっているのである。
しかし、このように教えられても自我がなくなるわけではなく、苦しみはなくならない。自我を持った人間の性である。ここに聞法を続けることの必要性がある。聞法を通して、自我執着の存在であることを教えられ続ける、それが念仏をいただいていくことであり、宗祖のあきらかにされた仏教徒のありかたであろう。

(『ともしび』2010年5月号掲載)

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