宗祖としての親鸞聖人に遇う

凡夫の歴史

(鶴見 晃 教学研究所研究員)

 福井県を訪れた際、勝山市にある白山神社へ連れて行っていただいた。養老元(七一七)年に創建された古社で、中世以降、白山信仰の拠点寺院であった平泉寺の旧境内である。平泉寺は、四十八社、三十六堂、六千坊といわれるほどの巨大な宗教都市を築いていたが、一向一揆勢力の攻撃により全山焼失したという。その後近世にやや復興したが、明治の神仏分離・廃仏毀釈によって平泉寺は廃寺となり、今は遺構をのこすのみである。その平泉寺の廃墟跡に立ち、一向一揆と対立した人びとの逃げまどう姿を想像しつつ、織田信長によって虐殺された一向一揆の人びとや戦国の戦乱で亡くなっていった人びとのことを思った。一向一揆の戦いがもつ意味をあらためて考えさせられたひとときであった。
 学生の時、聖人の御生涯以外の歴史にはほとんど興味がなかった。しかし入所以来、広く仏教史から近現代の教団の歴史まで学び、考える機会をいただいて、よく戸惑いを覚えた。それまでは、歴史の一部分を切り取ってあれは間違いだ、これは大事だといって済ませていればよかったが、知るほどにそれでは済まないことや異なる見方にであってしまう。そして、歴史に対する善悪の判断や、否定、肯定は簡単にできるものではないということを知り、戸惑うのであった。それは単に判断がつかないという戸惑いではなく、自分の立ちどころがどこにあるのかと歴史を通して問い直される経験であったと思う。
 歴史は単なる事柄の羅列、時間の経過ではなく、人の生きた歴史である。そして、それは「凡夫(ただひと)」(聖典九六五頁)が生きた歴史である。英雄や偉人の歴史もまた「凡夫」の生きた歴史である。すばらしい業績に意味がないということではなく、誰もが「凡夫」であるという一点を外すならば、結果として、人間の中に正邪や上下といった価値体系を作り出すほかない。どの人の歴史も、様々な縁によって生きた存在の歴史の他ではなく、その歴史が、逆に、縁によって様々な在り方をしてきているわが身を浮かび上がらせる。「凡夫」の生きた歴史は、わたしが「凡夫」であることを証しするのである。そして歴史の方が、「凡夫」であるお前はどう生きるのか、と問うてくるのである。
 だから私にとって歴史を知ることは、歴史の中におぼろげに浮かび上がる人間の姿、物言わぬ他者との対話のようなものの気がする。「なぜこのような歴史になったのか。あなた方は何を、なぜ、どのように求めたか」。その問いは、自ずと自分自身に還ってくる。「あなたこそ凡夫であることを見失って、何を求め、どう生きようとしているのか」。歴史は、そう私に問いかけ、見守ってくれているようにも思えてくる。こうして、教団を含めた、歴史を学ぶことは、いつの間にか、私にとって真宗の学びの一つとして大切なものとなっていた。

(『ともしび』2013年7月号掲載)

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