宗祖としての親鸞聖人に遇う

人知の闇

(花山 孝介 教学研究所所員)

 2011年に宗祖の七百五十回忌御遠忌法要が勤まった。しかし、その法要に先立つ3月11日に発生した東日本大震災は、今でも多くの爪痕を残すと共に、人々の心の中に大きな悲しみと痛みをもたらしている。復旧・復興に全力を挙げて取り組まれている現在でも、今なお先の見通しがつかない極めて深刻な危機を招いているのが福島第一原子力発電所爆発による放射能汚染事故である。この事故は、そこに住んでいる人々に不安と怒りと悲しみを二年経った今も与え続けている。当時、御遠忌中に配布された挨拶文の中に、

   原子力発電所の極めて深刻な事態は、経済至上・科学絶対主義と表される人知の闇が、   まさしく露わになった事実であり、私たちの生活の根底から問い直させる、大変重要な   意味をもっている。

という文章がある。
 今なお続く原発事故問題に対し、二年以上経った今でも、完全な解決策が示されているわけではない。逆に、この先どの様になるかさえ、その最終的な真の結論については誰一人知る人はいないのではなかろうか。それにもかかわらず、国は原発の安全性を改めて主張すると共に、海外に向けて輸出しようとしている。何故、あのような悲惨な事故が起こったのかに対する総括や問題の解決策も示されてはいない。それよりも、今も現状に苦しむ人々の痛みや悲しみを受け止めることなく、ひたすら「科学絶対主義」を信じ、そこに何らの疑いも挟むことなく、それを裏付けに「経済至上」に邁進しようとするのであろうか。そこに、人間の幸せがあるかのような幻想を抱かせようとしていることに、危機感を感ぜずにはいられないのである。その根本にある課題とは何なのか。
 私たちは、人間のもつ知恵により全ての幸せが達成できると信じて疑わない。今日の社会の繁栄はその知恵の結晶によって成立してきたと考えているし、その様な社会をひたすら求めていたのも、実は私たちである。しかしその事を根底から問い直させているのが原発問題ではないだろうか。その事は「想定外」と言葉に聞き取れると思う。つまり、「想定」そのものが人知の象徴であるならば、それが「外」れた事は、正に科学万能を疑わない人知そのものが問題である事を示しているのではなかろうか。何故なら、全てを「数値化」し、それを基準に判断していく人知そのものが、実は「闇」であると教えられているからである。
 宗祖が、何故私たちに阿弥陀仏を仰ぐ生き方を勧められるのかといえば、それは光としてはたらく阿弥陀仏によって自らの闇が知らされる以外に、本当の生き方はないと頷かれたからである。私たちはどこまでも仏の教えに依らない限り、他者への痛みを感じることなく互いに傷つけ合う生き方しかできないのではなかろうか。その様な現実を、大悲して止まないところに阿弥陀仏の願いがある。私たちは、どこまでも教えを通して人知の闇が破られ慚愧するところに、共なるいのちを生きる道が開かれるのではないかと思う。 

(『ともしび』2013年10月号掲載)

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