ラジオ放送「東本願寺の時間」

渡邉 尚子(愛知県 守綱寺)
第5話 「生活をもって信心をみがく」 [2005.10.]音声を聞く

おはようございます。
見えるいのちを支えるいのち、本当のわたし、その名前が、「南無阿弥陀仏」であります。わたしは、阿弥陀の本願をすでに、わたしといただいていました。それにもかかわらず、そのことを見失って、みえるいのちにばかりにこだわって、自分を狭い世界に閉じこめていたのです。念仏は、そんなわたしにいつも「そういうおまえはどうや」と問いかけて下さいます。先回まで、そんなお話しをさせていただいてきました。
時は巡って、私もおばあちゃんと呼ばれる身になりました。上の孫は2歳ごろから言葉が出だし、2歳半を過ぎた今では、語彙も豊富になって、なんでもおしゃべりできるようになりました。すると、途端に、自我がしっかり顔を出してきたのです。朝起きた時から、夜やすむまで、「自分で」「自分で」ということばの大洪水。何にでも「自分で」と口を出さないと気がすみません。おかげで、家事ははかどらないし、じゃまで、面倒なことが、度々。いつもいつも孫の言うとおりには動けません。すると「ぎゃーぎゃー」泣きわめきます。おかしなことに、この孫は、言葉を話すようになるまでは、いつもニコニコ、機嫌のいいあまり泣かない、いい子だったのです。人間は、ことばを話す生き物です。
「言葉は、世界を開く」と言われたのはヘレン・ケラーでした。言葉によって、コミュニケーションが生まれます。経験もことばによって成り立ちます。言葉にならない経験は、経験したとはいえないと私は思います。しかし、同時に「言葉によって苦しむ」という、人間にだけある苦悩が起こってくるのです。その苦悩の原因を、孫の姿が教えています。「自分で」「自分で」と言うことは、自分の思い通りにしたい、ということです。
本来、自分の思い通りになるものなど、何一つないのです。わたしの思いをこえた領域である、阿弥陀仏の本願の、はかりしれないいのちを頂いている身であるのに、言葉を話はじめた途端、本尊が、逆転して、思いの自分、思い通りにしたい自分を、本当の私と、錯覚、してしまうのです。孫の「自分で」「自分で」という自己主張、自己執着は、まだまだかわいいものです。年を重ねていくうちに、自己主張、自己執着を上手にかくすことをおぼえます。私たちが日頃使っている善悪という物差し、それも、自分の思いが作り出したものですが、この善というものを味方につけると、ますます自己執着が、強烈になります。何よりも、「自分の思い」を信頼しているので、善も、自己執着だとは、気がつきません。こうして、ますます迷いが深くなります。たとえ、自分の思い通りのものが手にはいっても、それがすぐ当たり前になって、もっと欲しくなります。
持ったものによって、人間はますます飢える構造になっているようです。これらすべてが、言葉によって、作り出された自己主張、自己執着の苦悩であり、迷いです。人間は、どうしても、自己主張、自己執着の自分の思いを破る言葉に、出会わねばなりません。つまり、本尊を見つけなくてはなりません。それが、宗教の存在する意味だと、私は理解しています。
本尊を、本当に尊いことを見つけられずに、自分の思いを本当としていく限り、どうしても最後には、思い通りにならなかったことに、愚痴を言い、自分で、自分を見捨てなくてはならなくなります。
友達の姑は、毎日、顔を合わせるたび、「ああ、こんなになって死んだ方がましだ」と畑仕事が思い切りできないことを、愚痴られるそうです。私には、この方の言葉が「私は、私に生れてきてよかった」と言える言葉に出遇いたい」という悲鳴に聞こえます。
南無阿弥陀仏は、わたしの本尊。念仏は、いつも、私の思いにしか立たぬ、自己執着の私に「そういうお前はどうや」と厳しく、厳しく問い続けてきます。本当に尊いことは、もう既に、私に、頂いておりました。南無阿弥陀仏をご本尊に頂くということは、私の生活が、信心を磨くと言う、意味のあるものに転じられていくということなのです。

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