正信偈の教え-みんなの偈-

苦悩を越える

【原文】
獲 信 見 敬 大 慶 喜
即 横 超 截 五 悪 趣

【読み方】
信をれば見てうやまい大きにきょうせん、
すなわち横に五悪しゅ超截ちょうぜつす。


 親鸞聖人は、まず「ぎゃく信見しんけんきょうだいきょう」(信を獲れば見て敬い大きに慶喜せん)と詠われました。
 前回学びましたように、「信を獲れば」というのは、まさに、この私を救ってやりたいと願われている、阿弥陀仏の本願が自分に対して差し向けられていることに気づかされて、信心を感得することでありました。そして信心とは、自分に向けられている願いに対して素直になることでありました。
 そうすると、願いに気づかずに、自分の思いだけを頼りにしてきた愚かな自分の姿が、はっきりと「見えて」くるのです。そして、そのような自分には、心から本願を「敬う」こと以外に、何もすることがないのだと、聖人は教えておられるのです。
 このように、愚かな自分の姿にあらためて気づかされ、本願を敬う身になるならば、それは、この上なく大きな喜びとなると教えておられます。「大きに慶喜せん」と言われるのです。
 阿弥陀仏が願っておられる、その願いを敬い、願いを喜べる身になるならば、私どもは、たちまちにしてさまざまな迷いの状態を飛び越えていけると言われます。そのことを、次の句に「すなわち横に五悪趣を超截す」と詠われているのです。
 「五悪趣」は、五道ともいいますが、凡夫が自分の為した心身の行いの結果として趣くところです。地獄・餓鬼がき畜生ちくしょうにんてんの五趣をいいます。畜生と人との間にしゅを加えて、六趣とか六道とも言います。
 生前中の行いによって、死後に地獄に落ちたり、天上界に生まれかわったりすると言われることがあります。それはもともと、仏教が興る以前の古代インドの宗教が教えていた考え方でありました。それが仏教の中にも取り入れられてきたものと思われます。
 しかし仏教では、生まれかわりの主体と考えられるものを「」といい、釈尊は「無我」を教えられて、そのような主体の実在を否定されました。釈尊のこの教えからすれば、死後に地獄などに生まれかわるなどということはないわけです。そればかりか、私どもの日常生活の他に、どこか別のところに地獄のような場所などは実在しないことになります。
 仏教の中で、地獄に落ちるとか、畜生に生まれるとか、そのようなことが言われてきましたのは、人が悪を行わず、善いことをするようにという、教訓的もしくは警告的な意味があったからだと考えられます。しかし、釈尊の教えの基本からすれば、この六道はいずれも、私どもが現在の生涯において、入れ替わり立ち替わり、次々と経験しなければならない苦悩の状態を教えたものであると理解しなければなりません。
 それでは、六道の一つ一つをどのように受け止めればよいのでしょうか。試みに次のように理解してはいかがでしょうか。「地獄」とは、自分の行いの結果として生存中に経験しなければならなくなる耐え難い苦しみの状態です。「餓鬼」というのは、自分が引き起こす貪欲とんよくのために、自分自身が苦しまなければならなくなる状態です。「畜生」は、道理に対して無知であるために、互いに争い合い、殺し合って、結果として自分が苦しむことになる、そのような状態です。「阿修羅」というのは、古代のインドでは戦闘をつかさどる鬼神とされていたものでありましたが、いまは、自らが起こす怒り憎しみの心によって、かえって自分が傷つき苦しむことになる、その状態のことであると理解することができます。「人」は、人間らしい感情に支配されて思い悩む状態です。「天」は、精神作用の活発な状態で、六道の中では最もすぐれた状態ではありますが、やはり迷いの状態であることには違いはないのです。
 五悪趣といい、六趣といっても、それらは、実体としてどこかに存在するというものではなく、私どもが自分の行為の報いとして日常に経験している苦悩のことであるのです。阿弥陀仏の本願を敬い、本願を喜ぶならば、苦悩の状態を一挙に超えられるのだと親鸞聖人は言われるのです。
 「横に超截する」ということについては、次回、少し考えたいと思います。

大谷大学名誉教授・九州大谷短期大学名誉学長 古田 和弘

< 前へ  第26回  次へ >