正信偈の教え-みんなの偈-

道綽禅師

【原文】
道 綽 決 聖 道 難 証
唯 明 浄 土 可 通 入

【読み方】
どうしゃくしょうどうの証しがたきことを決して、
ただじょうの通入すべきことを明かす。


 どうしゃくぜん(五六二‐六四五)は、少年時代に出家されました。しかし程なく、北周の武帝が厳しい仏教弾圧の政策をとりましたので(五七四)、仏像や経典は焼き払われ、僧尼は殺されたり、強制的に還俗げんぞくさせられたりしました。この時、若い道綽禅師も僧侶の身分を失われたのでした。
 この過酷な廃仏は、武帝の死とともに終わり、仏教は復興したので(五七八)、道綽禅師は再び出家されました。そして厳しい実践修行に励まれたのです。また主として『はんぎょう』を深く学ばれ、やがて『涅槃経』研究の大家という名声を得られるようになられたのです。
 『涅槃経』は大きなお経で、さまざまな教えが説かれていますが、その中心となる教えは、人間の本性を徹底して見きわめることです。そして、すべての人に例外なく「仏性ぶっしょう」(仏としての性質)がそなわっているという教えが説かれているのです。
 親鸞聖人が、七高僧として崇められた方々のうち、中国から出られたのは、曇鸞大どんらんだいと道綽禅師と善導ぜんどう大師でありました。そのうち、道綽禅師だけが「禅師」と呼ばれ、他のお二人は「大師」と呼ばれておられます。
 当時の僧は、どなたも仏教の教理を探求し、戒律を厳しく守り、実践的な修行に励んでおられました。その中でも、教理の研究に特徴を発揮した人を「ほっ」といい、戒律に特に厳格で、精通した人を「りっ」といい、座禅など、実践修行を特徴とした人を「禅師」と呼んでいたのです。この場合の「禅師」は、後に禅宗の僧を「禅師」と呼ぶようになったのとは、意味が違っていました。そして、これらの特徴のいずれにも当てはまらない人を、敬愛の気持ちをもって呼ぶ場合に「大師」といっていたようです。
 さて、道綽禅師は、伝えられているところによりますと、四十八歳の時、旅の途中で、かつて曇鸞大師がおられたげんちゅうにたまたま立ち寄られたのです。そこには、曇鸞大師の徳を讃えた石碑が建てられていました。道綽禅師は、その碑文を読まれて大変驚かれ、また深く感銘を受けられたのです。そして、これまでの思いを翻して、深く浄土の教えに帰依されたのです。それは曇鸞大師が亡くなられてから、七〇年ほど後のことでありました。
 道綽禅師は、曇鸞大師の徳を慕って、そのまま玄中寺に住みつかれました。そして八十四歳で亡くなるまで、そこで、阿弥陀仏の名号みょうごうを称える念仏に専念され、また、さかんに『観無量寿経かんむりょうじゅきょう』の講説をしたり、『安楽集あんらくしゅう』を著すなどして、人びとに称名の念仏を勧められたのでした。
 道綽禅師のご幼少のころ、インドから『大集月蔵経だいしゅうがつぞうきょう』(『大集経月蔵分だいじっきょうがつぞうぶん』ともいう)というお経が伝わって来ました。このお経には、仏教の教えは、釈尊が亡くなられた後、時代がへだたるにともなって世に正しく伝わらなくなり、やがて仏法は衰滅する時が来ると説かれているのです。いわゆる「末法」の到来が説かれているわけです。
 道綽禅師が生まれられたのは、すでに末法の時代に入って十一年目のことであったとされています。その上に、武帝による過酷な廃仏がありましたから、まさに仏法は衰滅に向かいつつあるという、強い危機の意識が広まっていた時でした。
 このような状況では、自分の力によって人生の苦悩を解決するとか、自分の努力を信じて修行して、覚りに近づくなどということは、もはや不可能になっているという自覚が、道綽禅師にはあったのです。
 「道綽、聖道の証しがたきことを決して、ただ浄土の通入すべきことを明かす」(道綽決聖道難証どうしゃくけっしょうどうなんしょう 唯明浄ゆいみょうじょう土可どか通入つうにゅう)とありますように、道綽禅師は、自力によって修行しようとする聖道門の教えでは覚りは得られないことを明らかにされました。そして、阿弥陀仏の願いとしてぼんに差し向けられている他力の念仏によって浄土に往生するという、浄土門の教えこそが私たちの通るべき道であることを明らかにされたのです。

大谷大学名誉教授・九州大谷短期大学名誉学長 古田 和弘

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