ラジオ放送「東本願寺の時間」

東舘 紹見(仙台教区 善林寺)
第5話 今、いのちがあなたを生きている ― 親鸞聖人のご生涯を通して― [2006.7.]音声を聞く

おはようございます。今朝も、親鸞聖人のご生涯を通して、「今、いのちがあなたを生きている」というテーマを考えてまいりたいと思います。
親鸞聖人にとって、法然上人との出遇いは、法然上人を通じて阿弥陀仏の本願に出遇った、すなわちはかりないいのちからの、共に生きようという願いに出遇った、生涯忘れることのできない出来事でした。そして、それは、年令や境遇、経験の全く違う人間どうしが、阿弥陀如来の光に照らされ、ともに歩むことができる、そのことが確かに感じられる、具体的な場との出遇いでもありました。
親鸞聖人は、法然上人を通して阿弥陀如来のご本願に出遇って以来のご自身のお心を、「親鸞におきては、ただ念仏して、弥陀にたすけられまいらすべしと、よき人の仰せをこうむりて信ずるより他に別の仔細なきなり。」とおっしゃっておられます。親鸞聖人にとって、阿弥陀如来の本願は、毎日の生活の中で、常に自分自身の姿を照らし出してくださる「光」として、はかることのできないいのちからの、ともに生きんという呼び声として、日々具体的に仰がれるものであったのです。
しかし、そうしたあらゆる人びととともに、自分中心の心とその心が作り出した社会の闇を照らされ見つめつつ生きる、という生き方は、自分たちは立派な人間であり、どうしようもない人びとを導き救ってやらなくてはならないと考えていた人びとの、その考えの根本をゆさぶるものでもありました。親鸞聖人が35歳の時、法然上人のもとに集っていた人びとのうち、4人の人が死罪になります。そして、法然上人と親鸞聖人は、僧侶の資格を奪われ、罪人として、それぞれ四国と現在の新潟県にあたる越後に流罪となり、吉水の集いは解散させられたのです。これは、自分を正しいものとして立て続けようとする人間の思いを前提に権力というものがつくり上げられると、それは、あらゆるいのちからの呼び声に耳を閉ざし、人間をさらに深い悲しみの底に突き落としてゆくことが、はっきりと思い知らされた事件でありました。
この後、親鸞聖人は越後でおよそ7年間生活した後、常陸、現在の茨城県を中心とした関東の地で20年ほどの生活を送られます。それらの地での親鸞聖人と人びととの暮らしが、どのようなものであったのか、実は詳しいことはまだよくわかっていません。しかし、間違いのないことは、親鸞聖人が、その地の人びとと、「一人の人間」どうしとして、日々の生活を営み、その中で阿弥陀如来のいのちのはたらきを感じ続けてゆかれたことです。
親鸞聖人は、そうした人びととの生活の中での実感を、「りょうし、あきびと、さまざまのものは、いし、かわら、つぶてのごとくなる我らなり。」と記されています。この言葉は、一日一日の生活を必死で生きる人びと、そのためには生き物のいのちを取り、石ころのような者とさげすまれ続ける人びとと、人と生まれた悲しみ、喜びをともにし、「我ら」と素直に呼び合える関係を生きた者の言葉であります。
また、晩年に、親鸞聖人は、「良し悪しの文字をも知らぬ人はみな、まことの心なりけるを、善悪の字知りがおは、おおそらごとのかたちなり。」とおっしゃっています。
都から遠く離れた地に赴く時、親鸞聖人は、いよいよ人びととともに歩む道が開かれたと思ったかもしれません。しかし、実際に、毎日の生活を、幸せを願い、悩み苦しみ、微笑み、ただ懸命に生きる「いなかのひとびと」に、自分が「とも」として迎えられた時、それまでご自身が、そうした現実の地を這うような生活を知りもせず、知ろうともせず、「人びととともに」という教えをただ理屈として理解し、それを人に語って聞かせてやろうとさえしていた、自分の姿がはっきりと照らし出されたのではないでしょうか。現実の社会を生きる人と共に生き、まさに具体的な問いかけを受け続けることによって、親鸞聖人は、一人の人間として、地に足が着いた仏道を人びととともに歩むことができたのです。

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