ラジオ放送「東本願寺の時間」

山口 知丈(大阪府 昭徳寺 住職)
第6話 今、いのちがあなたを生きている [2006.8.]音声を聞く

おはようございます。これまで5回にわたり宗祖親鸞聖人750回御遠忌のテーマ「今、いのちがあなたを生きている」から響いてくるもの、聞こえてくるものを尋ねてまいりました。
私自身のつたない経験の中から、しかし「いのち」のあり方全体を問い返すようなきっかけとなりました出来事や言葉を紹介させていただきました、これまでのお話を少し振り返ってみますと、第一に「いのち」とは仏様のはたらきそのものを指す「無量寿」であること、また、その「無量寿」とは「もとの阿弥陀のいのちへ帰せよ」と教えられている「いのちの本来的な在り方」であること、そして「いのちの本来的な在り方」とは「つながりを生きる」ときに回復されてくるものであること、それが回復されたときに人は「あるがままを生きる」ことが始まるということ、これらのことについてお話させていただきました。今日はその最終回となります。
5回お話させていただきまして、あらためて感じますことは、私たちが賜ったこの命を「無量寿」として頂き直して行こうとするとき、それには親鸞聖人が聞き取られたお念仏の教え、これを聞くこと、すなわち「聞法」、「教えに耳を傾けること」ですが、これが大切であることを第一番に感じます。
さらに、生きていく上でも、また「聞法」するときにおいてでも、おそらく人間にとって最大の課題は私たち自身の「無明性」、すなわち「真理に暗く、事実や道理を正しく理解できないこと」ですが、ここに本当の課題があること、このことを強く感じさせられました。実は「聞法」とは私たちが抱えていますこの「無明」ということ、自分の姿、在り方に徹底的に暗いということ、その事実を自分の上に明らかにしていくこと、聞き開いていくこと、これが「聞法」の最大の目的であり、また仏教の最大の目的であると思います。
私は現代の日本が抱える悲劇のひとつとして、いや、もしかするとその最たるものとして、この「無明性」から起こる「幼児虐待」の問題があるのではないかと思います。社会の価値観の均一化と生活環境の変化のなかで、大人も子どもも社会が提示する競争原理の網にかけられてしまい、しっかりとした人と人とのつながり、すなわち「共存の原理」ともいうべきものを身に体験することがないまま生活し、あるいは育てられています。そして、人と人との出会いや「聞法」を通して、自らを省みる機会を失ったことが、様々な事件が引き起こされてくる要因であるように思えてなりません。「幼児虐待」は自然や人との豊かな出会い、共に生き共にあること、すなわち「共存の原理」の欠如がもたらす悪循環の結果であるように私には感じられます。
このような現状を悲しみをもってしっかりと捉え、立ち向かおうとするとき、私たちに思い起こされてくるのが、親鸞聖人の「大無量寿経」を真実と仰ぐ「本願他力の教え」なのではないでしょうか。その現代的表現が実は「今、いのちがあなたを生きている」という親鸞聖人750回御遠忌テーマであると私は思います。
評論家の江藤淳さんが書かれた「漱石とその時代」のなかで、夏目漱石が「文学論ノート」において「東洋の人は心に向かって工夫し、西洋の人は外に向かって工夫す」と記していることが紹介されていました。かつての日本人は自らを省みる心を保持していたのでしょう。もしかすると漱石はそれが失われていくことを予感していたのでしょうか。
漱石と同時代に生きた、明治の仏教者清沢満之先生の「精神講話」の中に次の一連の言葉がありました。

私共人間が苦しんだり、悲しんだりするのは、つまり自分という者を大事がっているからである。
責任を負う人はえらい人である、しかし苦しみの多い人である。
義務を感ずる人は貴い人である、しかし嘆きの多い人である。 「自ら侮り自ら重んずるという事」より

古典的な文語表現の多い清沢先生の言葉の中にあって、めずらしく、今を生きる私たちにもよくわかる一連の金言です。現代を生きる私たちは、苦しみ悩むことも多いけれども、実はそれだけ学ぶことの多い、この豊かな人生を、狭い自己関心で捉えたり、自分を買いかぶったり、あるいは都合の悪いことに出会うと殻にとじこもったりすることに終始してしまっているようです。だからこそ、そのような自分のあり方を言い当てられ、限りある、このいのちをかけがえのない「無量寿」として頂き直す機会、すなわち、親鸞聖人の教えに耳を傾ける「聞法」の機会として、親鸞聖人の750回御遠忌が必要とされているのではないでしょうか。

*引用文には歴史的仮名遣を現代仮名遣いに改めた箇所があります。

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