ラジオ放送「東本願寺の時間」

高名 和丸(青森県 正行寺)
第5話 出遇わずにおれないいのち 人間成就 その2 [2007.5.]音声を聞く

おはようございます。
「今、いのちがあなたを生きている」という宗祖親鸞聖人750回御遠忌テーマについて、「出遇わずにおれないいのち」という視点から、お話しさせていただきます。
うちのお寺では、先代もそうしていましたので、住職が本堂のお花たて、立華をします。十数年前に先代が倒れて、わたしが立華をするようになった時分は、大変だなあと思いながらやっていたのですが、次第に面白くなってきて、色々工夫をして、大変には大変なのですが、ある意味で楽しんでやっています。青森県の津軽半島の北の端で、都会的なものはありませんが、自然がたっぷりありますので、色々な木を取ってきて、使って、立華をしています。真宗では、仏さまにお花を備える、というときに、備品の備(び)の字を使って表記します。お供物の供(く)の字ではなく、備の字を用いる、そこには、お花のすがたを通して仏さまからわたしたちに法が説かれている、という意味があるのではないでしょうか。
説法といいますと、先ず言葉による説法を思いますが、「仏様の姿もまた説法である」と教えられています。(「相好亦然」聖教全書三経七祖部444頁)そういう関心を持ってお花を見ますと、花は、どの花も、別の花と自分とを見比べて、自分のほうが優れていると威張ったり、なんてみすぼらしいと落ち込んだりすることなく、赤い花は赤い花として、白い花は白い花として、自らのいのちを表現しています。そうしてみれば、お花の姿をとおして「比べることを超えたいのち」ということを聞きいただくことができるのではないでしょうか。
また、花は、どんな状況のところに生きる縁が結ばれても、そこで精一杯いのちを表現していきます。「こんな土地もやせた、風も冷たい、環境の悪いところでは、まともに咲くことはできない。だったら、咲くだけ馬鹿馬鹿しい。咲くのはやめた」ということはありません。途中で折れても、かじかんでも、あるいは結局咲くことができなかったとしても、精一杯花のいのちを表現していきます。「こここそわたしの生きる場所」、と精一杯生きる、そういう法が説かれているのではないでしょうか。誤解の無いように言い添えますが、人間にとっては、「ここ」とは固定的な場所ではありません。自らのあるがままの姿が「ここ」です。年をとれば年をとった、それがここです。病気になれば病気になった、それがここです。「ここ」以外にわたしの生きるところはありません。
そして、花はやがてしおれます。やがてしおれる。「人生は有限である」ということです。人生には限りがあるのです。それがどれだけ悲しいことであっても、つらいことであっても、誰もそのことから逃れることができない、いのちの真実のすがた、それが、人生は有限ということです。そしてひとたびしおれた花は、再び元の姿に戻ることはありません。人生は一回きりということです。そしてそこに、「有限だから今が尊い。一回きりの人生だから、人生が尊い」という、いのちのよろこびがあらわされています。
わたしたちのこのいのちは、ああしたい、こうしたいといっているその底に、もっと深い、もっと根源的な、生まれてからというよりも、人間として生まれたということがすでに宿しているような、欲する心を持っているのではないでしょうか。出遇わずにおれない、そのような突き動かすものをかかえているのではないでしょうか。「生まれたことはむなしくなかったといえる世界に出遇いたい」そう欲する心です。
仏さまといわれる、いのちの本当の姿に目覚めた人は、そのような深い人間の欲する心とは、「まことに出遇いたい」ということと切り離すことができない心である、と見出されました。そしてそこから、「まことの国に来たれ」と呼びかけています。仏さまに手を合わせるということは、「有限の今において、永遠のまことに帰する」、ということです。そこにこそ、人間の、深い、欲する心が、感動することのできる世界が開かれているのではないでしょうか。

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