ラジオ放送「東本願寺の時間」

池田 理(兵庫県光照寺)
第5話 苦しみ悲しみ自体の持つ意味、そのいのち [2007.9.]音声を聞く

おはようございます。宗祖親鸞聖人750回ご遠忌テーマ「今、いのちがあなたを生きている」について、日頃感じていることをお話させていただきます。今回は5回目です。
Aさんのお宅に初めて月参りに行ったとき、仏壇の横に、まだ新しい骨箱が三つ置かれてあったので、二度目にお参りしたときお尋ねしましたところ、「子どもたちのです」ということでした。月参りのときはご夫婦で私の後ろに座られます。お2人とも、40代の方で、ご主人は物静かというか、何かに悩んでおられるような感じがしました。奥さんのほうは、努めて明るく応対されていました。思い切って、ある日、お宅を訪ねて、今までのことを、お聞かせいただくことになりました。
長女の方は13歳で、次女の方は生後間もなく、そして三女の方は7歳のときに事故で、亡くなられたそうです。私は言葉も出ませんでした。長女の方は障害を抱えておられたため、入退院を繰り返す生活が長かったそうです。そんななかで、新たにお子さんに恵まれたのですが、しかし生後まもなく亡くなられました。長女の方も、ご夫婦も、つらいことだったでしょう。ですからAさんのご家族にとって、あらたに三人目のお子さんを授かったときの喜びは、また不安は、とても大きかったことでしょう
そういう私にも、今20歳を過ぎた娘がひとりだけ居りますが、結婚当初、なかなか子どもが授からなくて、いろんな思いに、しんどくなりました。だからやっと授かったときは、どれほどうれしかったかを思い出しました。しかし、先天性の股関節脱臼があることがわかり、治療に取り組まなければならなくなり、その間の苦労は、少しはわかっています。いや、いつしか、自分たちも、少しは苦労したとさえ思うようになっていました。Aさんのご家族のことをお聞きしているうちに、愚かにも、いつしかそのように比べている自分を教えていただきました。
Aさんご家族のことに戻りますが、三女の方の妊娠、出産、育児は、大変な生活は続くものの、かえって、今までの悲しみを打ち消してくれるかと思われるほど、生き甲斐をもたらし、喜び、明るさを取り戻してくれたのではないでしょうか。しかし、またしても、その三女の方が、事故で亡くなられたのでした。
Aさんは、ふだんは、長女の方と奥さんとのことを気づかって、三女の方と出掛けることを控えめにしておられたそうですが、でも、或る日、奥さんの勧めもあって、三女の方と遊園地に行ったそうです。事故はその遊園地の乗り物によって起きたそうです。Aさんは、その事故以来、外出する時に不安がつきまとい、苦しむ毎日が始まったのだそうです。奥さんも、長女の方も、どれほどショックだったでしょう。そのうえ、今度は、長女の方が亡くなられました。どれほどの悲しみが、ご夫婦をおそったことか、わかりません。
ところで、最近、九州大谷短期大学名誉教授・宮城_先生の『宗祖聖人親鸞?生涯とその教え』という本を読んでおりましたら、「苦悩するもの」という小見出しのついた一文がありそこには、
「私たちは苦しみや悲しみに出遇うと、それを「横(よこさま)に来たれり」と思うのです。「横」とは理不尽にも、ということ。なぜこんな目にあわなければならないのだという愚痴の心です。受けないですむはずだという思いで受けているのです。どこまでも苦しみや悲しみの責任を外にみているのです。それにたいして、苦しみや悲しみを、人間として生きているという現実そのものとして、人間であるかぎり等しく身に受けている事実として、逃げず、目をそむけず、それを真正面に見すえ、受けとめていく勇気と情熱として、苦諦はあるのです。」
と述べてありました。苦諦とは仏陀釈尊が初めにお説きになった、人生は苦であるという教えです。
私もAさんご夫婦も、苦しみ悲しみを、「なぜこんな目にあわなければならないのだ」という思いで、「受けないですむはずだという思いで受けているのです。」このことをしっかり確認しなければならないでしょう。もし、そうしなければ、お子さんたちと共に苦しんだことが、過去の、つらかった経験ということで終わってしまうでしょう。苦しみ悲しみそれ自体の持っている意味が、いのちをなくしてしまうのではないでしょうか。そしてそれと同時に私たちの生きている意味もまた、いのちをなくしてしまうのではないでしょうか。苦しみ悲しみそれ自体の持っている意味が、今、私たちのいのちに、苦しみ悲しみを感じさせて生きているうちに、その意味を問わなければならないでしょう。
こんなことを、またAさんご夫婦と一緒に考えていきたいと思うのです。

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